青の伝説(57) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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カシミールサファイア

《カシミールサファイヤ》カシミールは、インドでもっとも美しい土地のひとつである。ヒマラヤ山脈の西端、カラコルムの山懐に位置する山岳地帯を控えた高原で、古くから中央アジア(イラン、アフガン、カスピ海沿岸諸国)からインド亜大陸へ抜ける唯一のルートとされ、現在はパキスタン、アフガニスタン、中国などと国境を接する地理的交通の要衝であり、各国が通行権の確保に常に兢々としている戦略的要地である。カシミールの山岳地帯は、パンジャブ地方の沃野を潤すインダス川の源である。優雅な川と谷、湖と美しい木々、切り立つ懸崖と壮絶な渓流、氷河、万年雪を抱いた険しい山脈からなるこの土地は、「魅惑の谷間」としてインド人に広く愛されている。夏の州都スリナガルは、大きな湖をもつ古い都で、涼しい気候と眺望の美しさで知られており、インド人あこがれの新婚旅行地として人気がある。インド初代首相ジャワハルラル・ネルーは、3000年の血統を誇るカシミール最高位のブラーミン出身で、生涯折に触れてこの地を訪れ、政務の疲れを癒した。カシミールの歴史は古い。紀元前3世紀、アショカ王の頃には仏教が伝わって、紀元3-4世紀にかけて仏教文化が花開いた。今はパキスタンに編入されているガンダーラ地方の仏教遺跡は、アフガニスタンからインドへの歴史的通廊、「目もくらむ」カイバー峠を越えてカシミールへ抜けるルートの途上にある。カシミールはさまざまな宗教を持った民族が、侵入しては王朝を立て、やがて次の支配民族に国を譲るということを繰り返してきた。7世紀にはヒンズー教の王朝が興り、14世紀にはイスラム教を信奉する王の支配下に入った。18世紀半ばにはアフガン人が、19世紀前半にはシークがこの地に侵入した。そして、19世紀の後半、すなわち、カシミールでサファイヤが発見された当時は、イギリスを宗主国とするヒンドゥー藩王国が成立していた。藩王国とは、大英帝国の外交権、宗主権を認める見返りとして、対内におけるすべての自治・権利を委ねられた、インド人が支配する国家のことで、インド亜大陸の中ではほとんど独立王国に等しかった(イギリスは、彼らの反目を利用して巧妙な分割統治を行った)。王国を支配したマハラジャ(ヒンドゥー教の藩王)やニザム(イスラム教の藩王)たちは、絶対的権力と莫大な富を持った古い王族であった。当時のヨーロッパ列強に匹敵する国力を持つ王国も多く、例えば第一次世界大戦では、各地のマハラジャ率いるインド軍は、人員面でも金銭面でも、大いにイギリスを助けたものである。(もちろんイギリス直轄下にも、精強なインド兵がそろっていた。)カシミールは、大小およそ560を数えた藩王国の中でも、グワリオルやハイデラバードに並ぶ、広大な領土を持った大国だった。住民の生活は、イギリス直轄地のそれよりもはるかに豊かだった。藩王家は、ヨーロッパの王族もうらやむ大金持ちで、「ハスの花をかたどった黄金の日傘の下、ダイヤをちりばめたメダイヨンの輝くモスリンのターバンを頭に巻き、父祖伝来の家宝のエメラルドを真ん中に抱いた12連の真珠の首飾りを身に着けていた」そうだ。カシミールでサファイヤが発見されたのは、1881年のことである。ふとした偶然で発見された美しいサファイヤは、次々と人手を渡りながらデリーに運ばれ、その真価が知れるや、インド中の宝石商人の注目するところとなった。鉱山はすぐにマハラジャの監視下に入り、大量のサファイヤが採集された。藩王の金庫は当時大いに潤ったことだろう。余談になるが、1846年、第一次シーク戦争で、シークをカシミールから追い出したイギリス東インド会社は、現金600万ルピーと、毎年ヒマラヤ・ヤギのムク毛で織ったパシュミナのショール6枚を貢納する条件で、藩王家にこの土地を売却したが、もしその時点でサファイヤが発見されていたら、当然、宝石も貢納条件に入っていただろう。発見のいきさつは、その年、スリナガルのはるか南東方、ザスカール山脈のスージャムという村の近くで山崩れが起こり、花崗岩の岩脈を含んだ、古い石灰岩と片麻岩とが交錯した巨大な露頭が現れた。その中にペグマタイトのポケットがあって、トルマリンとサファイヤの結晶が発見された。ポケットには、粘土がいっぱい詰まっており、簡単に結晶を抜き取ることが出来たという。サファイヤは青色から灰色、ときにピンク色を帯びたものが採集され、一部は非常に美しいコーンフラワーブルーであった。大きなものでは、300カラットくらいまでのものが取れたが、多くは色がうすかったという(春山行夫「宝石1」による)。カシミールサファイアは、当初大量に採掘されて、大いに出回ったが、あまりに沢山採れるので、青めの紫水晶と思われて随分安い値段で取引されていたらしい。その後、サファイヤであることが知られると、カシミール藩王の注目するところとなり、採掘にはマハラジャの許可が必要となった。そのことがサファイヤの価値と価格を(高値)安定させた。けれども、ほどなく産出が激減し、20世紀の初めには、いったん宝石市場の表舞台から姿を消したようだ。またその産地は長らく、西方世界には知られず、カシミール人の間で密かに採掘されては、ジャイプールあたりで、加工されていたらしい。その後、二度に亘る世界大戦、インド独立、独立に伴って勃発したパキスタンとインドとのカシミール紛争、国土の分割、中国との国境紛争など、カシミールにとって多難な時代が続いた。その間、地元の業者は細々と採掘を続けていたようだが、採集量はやはり微々たるもので、市場を形成するにはいたらなかった。1927年に新たな鉱山が発見され、二次大戦後も採集が続けられていたという。ただ、産地のザスカール地方は、海抜4556mの高地で、一年のほとんどが深い雪に覆われているため、採集作業自体が、非常に困難であるという。かつてのような美しいサファイヤは、年に数個採れるくらい、あるいは事実上絶産に等しいらしい。(別の資料では標高4023mにある傾斜20度の険しい斜面、となっている)スミソニアン博物館のキュレータを務めるジョン・ホワイト氏は、「カシミール産の青いサファイヤは、他のサファイヤの品質を比較する基準となっていますが、そこでは長い間サファイヤが採れていません」と書いている。(「地球のしずくたち」)別の著者の本には、「本物のカシミールサファイヤが市場に現れることがあるとしたら、100年前に採掘、研磨されたものが、アンティークのオークションで売りに出される時くらいで、コレクター垂涎の的となっている」とあり、希少価値と相俟って、非常な高値がついているという。ここで「本物の」と断っているのは、カシミールサファイヤの名前で、他の産地のサファイヤが販売されるケースがあることを暗示している。画像は、カシミールサファイヤ原石とルース(SSEF/Hanni氏撮影)