《岐阜県大垣市青墓町》青墓(あおはか)宿は、現大垣市青墓町にあったとされる東山道の宿で平安末期から鎌倉期にかけて傀儡子(くぐつ)や遊女のいる宿として著名で、保元の乱で斬られた源為義の子の母は青墓長者の女であり、平治の乱で敗れた源義朝が青墓に逃れて青墓長者の女との間に子を儲けるなど源氏との縁が深い宿だったが、江戸時代には宿場ではなくなっている。ここには、いくつかの古い伝説が残されている。「照手姫水汲み井戸」、照手姫・小栗判官伝説にまつわる遺跡。その近くに「よしたけ庵跡」、源義経が奥州に落ちのびるときの伝説遺跡。この他にもいくつか史跡があり、まとめて「史跡の里 青墓町」の標識が建っている。のんびりとした田園の中の集落だが、古い歴史・伝説のある町だ。青墓町を過ぎると青野の集落となり、ここには一里塚跡の碑が建っている。昼飯のあたりから、西に向かって青墓、垂井に至る間は古墳が多いことでも知られる。中山道から直接眺められる昼飯大塚古墳は美濃では最大規模の前方後円墳である。
《お墓の歴史》日本における最初の墓石は「千引石」(ちびきいわ)と言われています。神話によると、千引石は「道反の大神」(みちかえしのおおかみ)とも言われ、女神イザナミの死後、彼女がこの世に出てくるのをさえぎって、もと来た黄泉の国へ追い返す役目を果たすべく、イザナギが千人でやっと引き動かす事のできるほどの大きな「千引石」であの世との出入り口を塞いだとされています。また、イザナミとイザナギが千引石をはさんで「事戸(決別)を渡す」シーンは、現在のお墓参りでの「亡き故人との対話」の原点となっています。縄文時代の遺跡では、青森県の三内丸山遺跡があります。この遺跡では道幅15メートルの道の両側に2列に並ぶ約100基の集団土坑墓が発見されました。5千年前の道幅15メートルの道ですから、おそらくは当時のメインストリートであった事と思われます。生活に密着した重要な道の両脇にお墓を作ったという事は、縄文時代からすでに死者を敬い、大切にしていたということになります。弥生時代の遺跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、北九州一体に特有の埋葬法である「甕棺」(かめかん)が2千基以上も出土し、2列になった列状墓群がみつかり、古墳時代の原型とみられる墳丘墓が列状墓群の北側にありました。これらは集落の中にあり、居住区から北側に列状墓群、更に墳丘墓、そして出入り口、そこから道が続いていました。当時の集落の人々も三内丸山遺跡の人々と同様に死者を敬い、大切にしていたと考えられます。やがて仏教が伝来し国家仏教として確立するころになると遺体や遺骨は「死穢(しえ)」(けがれたもの)とされ都市部から排除されていきました。続く平安末期から鎌倉時代には浄土思想に基づいて死者を供養する観念が形成されます。この頃、真言宗中興の祖・覚鑁上人(かくばんしょうにん)は密教と浄土の同一性を説き代表作「五輪九字明秘密釈」を書き上げます。この原理・理論から「五輪塔」が生まれました。江戸時代、徳川幕府がキリシタン禁圧のため、百姓、町人の全てをいずれかのお寺の檀家になることを強制しました。(宗門人別帳)これ以降、仏教、お寺と日本人の距離が近づきました。「死」をお寺が葬儀という形で担うようになったのもこれと密接な関係があると言われています。明治維新以降、国家神道の確立とともに祖先祭祀が道徳的基礎として位置付けられます。明治民法では「家制度」を定着させる為、墳墓(墓地)は祭祀財産として家督相続の特権とされました。これにより、ひとつのお墓に何人も(親類)が入る「家族の墓」が一般的になりました。明治以前は財力のある商人や武士を除き庶民は山に遺棄したり、河や海に流すのが普通でしたが、伝染病予防法が制定され火葬が普及し始め、やがて墓地(墳墓)は公衆衛生面や都市計画の観点から国家による法的な規制を受けるようになりました。そして現在の日本では多くの宗教、宗派が存在し、葬送の多様化、核家族化、により「家墓」の存続が難しくなってきました。また、都市部では墓地の不足に伴い土地が高騰しお墓を建てるのが困難になってきています。中には納骨堂への安置、散骨による自然葬など、お墓そのものを拒絶する傾向もあります。日本人が数千年前の古来より死者を大切にし、お墓に埋葬して供養する。この歴史を振り返り、いま一度お墓の重要性について見直す必要があるかもしれません。http://www.tamuseki.co.jp/rekisi.htm より