《宿毛市》今から、3、4千年前、松田川河口に形成される宿毛の中心地は、遠浅の海でした。そのため、満潮時になると海水が押し寄せて来る程の大湿原で、一面に葦が生い茂っていたといいます。古代の人々は、和歌等にも詠まれているように、枯れた葦のことを”すくも”と言い、宿毛の名前の由来はここからきていると言われています。宿毛の町はずれには、国の史跡に指定されている宿毛貝塚があって、既に3、4千年前の縄文時代頃に文化が開けていたことがわかっています。また、明治維新以後は多くの有為な人材を輩出した由緒ある町でもあります。古代平安時代には、菅原道真が九州へ左遷の際、乗った船が暴風雨に遭い、宿毛の小筑紫(こづくし)湾内にある島へ漂着したと伝えられています。この島は今では陸続きとなっていますが、一行はここに7日間滞在したことから、この島を七日島と呼ぶようになったそうです。中世になると、応仁の乱を逃れて幡多へ下国した一条教房の第2子で、後に土佐国司となる房家が、菩提寺として平田に籐林寺を建立。その後、天正3年(1575年)土佐一条氏が亡び、長宗我部元親が所領となってからは松田川の流路を変更して農地を造成し、宿毛は幡多郡第一の農村となりました。そして、藩政時代には山内一豊の甥の山内可氏が土佐の国老として宿毛を治め、明治に至っています。
《米偏に皮で「すくも」》「すくものぼかしごえ作りょうる(作っている)最中じゃけえ作業場におろう。『すくも』言うたら米の籾殻(もみがら)よ、それを久米じゃ『すくも』言うん。それから『ぼかしごえ』言うたら、ま、堆肥じゃな。」
《草かんむりに染めるで「すくも」》漢和辞典にはない日本人が考えたものです。草かんむり⇒藍染に用いる植物には蓼藍(たであい)を指します。「染」の「さんずい」と「染」の「九」と「木(=十八)」⇒九月から十二月のはじめまで およそ百日間かけて水を掛けては切り返し発酵させ、土の固まりのような”すくも”(=染料)にします。漢字一字一字にも、深い意味があるのです。
考察:さて、画像をじっくり見ていただきたい。染色数ある中で、手が染まってしまうのは「藍染め」だけと言われている。偏見・差別を助長したであろう原因がここにもある。青く染まった手、それは「死人」の手を思わせる。今でこそゴム手袋があるが、昔の藍染師たちの手はさぞかしゾッとするほど蒼ざめていたに違いない。特に爪はかなり良く染まる部位のようである。