青の伝説(39) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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宇治拾遺

日本には固有の色表現は「あか(明)」「くろ(暗)」「しろ(顕)」そして「あお(漠)」しかありませんでした。これは古代のみならず現代でも言えることで、末尾に「い」を付けて形容詞として使える色は、この四色と黄色、茶色だけです。「青い空」「赤い夕日」とは言いますが、「緑い森」とは言いません。固有四色以外はかならず何かから借用した「何々の色」なのです。

《みどり》「草木の新芽、初夏の若葉」の生き生きとした姿を指し示す言葉です。つまり「萌出る」(もえいづる)という大和言葉が変化したものです。それで生き生きふさふさした毛髪を「みどりの黒髪」と言ったり、赤ちゃんを「みどり子」と呼ぶのです。「日本語語源古代朝鮮語説」によりますと「ミドル」=「水の中の石」だそうです。アオミドロといったときの言葉はそうかもしれませんが、みどりの語源説としては弱いでしょう。正月七日に、天皇が内裏の正殿である紫宸殿で白馬を見る年中行事「白馬の節会」は、「あおうまのせちえ」と読みます。これも本来は読み方のとおり「青馬の節会」でした。「青馬」とは灰色がかった毛並みの馬のことで、正月に春の色である「青」い馬を見ると一年の邪気を祓うという古代中国の伝説によるものでした。その後国風文化の興りで日本独自の白色を尊ぶ気持ちから白馬を用いるようになったと考えられています。この「青馬」の「灰色がかった毛並み」が「あお」なのです。決してブルーの馬ではありません。「青」という色は一筋縄ではいかない色です。青色は特定できない色ではありますが、装束の色を考える観点からは、染料である「藍」が導入されてからのことを考えるのが妥当です。中国戦国時代の『荀子』にある「青は藍より出でて藍よりも青し」という言葉は、藍を発酵させて得た色を「青」としています。こうした藍を化学変化させたブルーの色素で染める技術が日本に伝わったのは、5世紀の応神天皇から雄略天皇の頃といわれています。現在「藍色」と言いますと濃いブルーを意味します。しかし日本では「藍色」はグリーン系の色で、当時の藍色はタデ科植物「山藍」の生葉を布に摺り付けた色を指していたと考えられています。

《『宇治拾遺物語』(13世紀前半)》巻第一一、一二四「青常(あをつねの)事」 村上天皇の時代に、皇族出身の左京大夫がいました。姿形は上品ですが、背がひょろ高く、声も甲高く、常に青白い顔をしていました。そこで殿上人たちは彼に「青常の君」とあだ名を付けて、いつもからかって笑っていました。その笑い声があまりに大きいので、帝が「これ。人が持って生まれたものについて笑うなどということはしてはいけない。」とお叱りになりました。殿上人たちは恐れ入って、「もう笑わないように約束しよう。もし今度『青常の君』と言った者がいたら、罰としてみんなに酒や果物をふるまうことにしようね」と取り決めました。約束してしばらくたって、まだ殿上人であった堀川殿(藤原兼道)が、左京大夫の後ろ姿を見て、ついうっかり「あの青常クンは、どこへ行くのかな」と言ってしまいました。殿上人たちは「やや、約束を破りましたな。罰ですから、さぁおごりなさい」と責め立てます。堀川殿は初めは「やだよ」と言っておりましたが、みんながあまりに責めるので、「仕方がない。あさって『青常の君ごめんなさいの会』をするので、殿上人や蔵人は集まってください。」と言って帰りました。さて当日。殿上人、蔵人全員が待っているところに堀川の中将がやってきました。直衣姿も素晴らしく、香もかぐわしく薫り、にこやかな登場です。直衣の裾からは青くツヤを出した衵(あこめ)を見せ、指貫(さしぬき)も青色。おつきの隨身三人には、青い狩衣と袴を着せて、ひとりには、青く塗ったトレーに、青磁の皿を乗せ、小桑の実を盛ったものを捧げ持たせています。もう一人は、青竹の杖に、山ばとを四、五羽つけて持たせています。最後のひとりには、青磁の瓶に酒を入て、青い紙で瓶の口をくるんでいます。殿上の間の前庭にこれらを持ってやってきたので、殿上人たちは大いにウケ、笑い騒ぎました。この声を聞かれた帝は「殿上でいったい何の騒ぎか」とお尋ねになりました。女房が「兼道が『青常の君』と言ってしまったので、みんなから責められて『ごめんなさいの会』をやって騒いでおります」と言うので、帝は「どんな『ごめんなさいの会』なのかな?」と昼御座(ひのおまし)に行かれて殿上の間を覗いて御覧になりました。すると兼道をはじめ随身たちが青い装束を着て、青い食べ物で宴会をしているので、なるほどそれで大ウケしているのだな、とお思いになって、帝も大笑いされました。それより後は、約束を破る人はいなかったということです。

ここでは青常の君にちなんで、青い物づくしを用意しています。ここから指貫や狩衣の「青」と似た色が推定できます。「あをじ」は青磁のお皿。青磁の色は還元炎焼成における釉薬の中の酸化第一鉄の含有量により左右されます。時代と窯によって一定の特徴があり、漢の時代にはまだ青色の発色が悪く、唐代にはオリーブ色、宋の時代には水色が強くなります。平安時代に輸入された青磁は唐のオリーブ色が強かったと考えられます。また、青磁の皿の上に置かれたフルーツ「小桑」(さるなし。マタタビ科の蔓性落葉低木。葉緑黄でやや球形の液果を結び、食用にする。)はまさにくすんだ黄緑色。キウイフルーツの仲間です。そしてグリーンの青竹の杖に山鳩。山鳩の色については下記を参照していただきたいのですが、黄緑系の色と考えられます。平安時代中期はともかく、少なくとも宇治拾遺物語が書かれた鎌倉時代前期には青=黄緑系=山鳩の色という共通認識があったということです。