青の伝説(40) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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高尾

《出藍の誉れ》戦国時代の儒家・荀子は孟子の性善説と反対の性悪説を主張した人で、その荀子の言葉に次のようなものがある。「学不可以已、青出之藍、而青於藍」意味としては、「学問というものは止まる事がないものである。青い色は藍(藍玉と呼ばれる染色の材料)から作り出すが、元の藍よりも鮮やかな青色をしている。冰は水から出来るものだが、水よりも冷たいものだ。」ということになる。西暦1世紀の後半の後漢に編纂された「新論」にも同じような記述がある。「青は藍より出でて藍より青し。染めて然らしむるなり。氷は水より生じて水より冷たし。寒さが然らしむるなり。」これらの言葉は、弟子でも努力すれば師匠を超えることが出来るということ。「藍」が師匠として、そこから作り出された「青」という弟子は元(師匠)の藍よりも優れているということ。このことから、師匠より優れた弟子のたとえとして、「出藍の誉れ」という語が出来た。もっぱら、「青は藍より出でて藍よりも青し」という言葉で表現されることが多く、水と冰のたとえは使われることはない。

《紺屋》こうや・こんやとも読む。藍で糸や布を染める染物屋である。中世は紺掻ともいった。木綿が普及したのは江戸時代の中期以降だが、その当時は染めるのは主として藍染であった。仕事場は、まず水利のよい場所を選ぶことが先決である。灰(あく)汁また渥(あく)の調整には、檪(くぬぎ)・樫(かし)類・欅(けやき)などの樹幹・枝葉や煙草・藍の茎の焼灰が最もよい。用具は藍甕・踏まえ竹・絞り竹・干し竿・藍籠・甕蓋・均・藍液攪拌(かくはん)棒・擢(かい)・担い桶・桶・盥(たらい)・摺(す)り鉢などがあり、布染めの場合には、釣染め用伸子(しんし)・張り手・刷毛などがある。藍甕は最低16~24個用意し、4個を寄せ並べて1組とした。藍甕8個を一丁番といい、職人一人の受持ちであった。弟子入りは13~15歳で水洗い、伸手張りなどをしながら親方から技能を伝授された。正月2日の仕事始めの日には、和紙で小さな衣型をつくり、裾の部分だけ藍液に浸し、神棚に供えた。また、正月、9月に藍神様の掛軸を掛け、お神酒・赤飯・尾頭付きの鯛などを供え、藍染講を開いた。

《紺屋の白袴》布を紺色に染めるのを仕事とする紺屋が、自分の袴も染めないで、白袴を穿いているということ。染色の液を扱いながら、自分のはいている白袴にしみ一つつけないという職人の意気を表したことばであるとする説もある。

1.他人のためにばかり忙しく、自分のことには手が回らないこと。

2.いつでもできるにも拘(かか)わらず、放置しておくようなことを指摘する言葉。

《紺屋の明後日》紺屋の仕事は天候に左右されるので、いつも「あさって」と言い抜けて仕上がりの期日を延ばすことから、約束の期限のあてにならないこと。明後日(あさつて)紺屋に今度鍛冶(かじ)。医者のただ今。

紺屋の地震申しわけないの意。「相済まぬ」を地震で壺がゆれて「藍(あい)が澄まない」としゃれたもの。

紺屋高尾神田紺屋町、染物屋の吉兵衛さんの職人で久蔵さんが寝付いてしまった。話を聞くと、国元に帰るため初めて吉原に連れて行かれ、当世飛ぶ鳥を落とす勢いの三浦屋の高尾太夫の道中を見て恋患い。錦絵を買い求めたが、全て高尾太夫に見える。10両で会えるだろうから3年働き9両貯めて1両足してそれで連れて行くという。久さん元気になって働き、3年後、その金で買うから渡してくれと親方に言うと、気持ちよく着物も貸してくれて送り出してくれた。お玉が池の医者の竹之内蘭石先生に、連れて行って貰う。流山の大尽として、首尾良く高尾太夫に会えた。挨拶の後、「こんどは何時来てくんなます」、「3年経たないとこれないのです」と泣きながら全て本当のことを話すと、高尾は感動し、こんなにも思ってくれる人ならと、「来年の2月15日に年(年季)が明けたら、わちきを女房にしてくんなますか」。久さんうなずき、夫婦の約束をする。揚げ代は私が何とかしますし、持参した10両と約束の証にと香箱の蓋を太夫から貰って、久さんは亭主の待遇で帰って来る。翌年約束の日に、高尾は久蔵の前に現れ、めでたく夫婦になる。

《約束をたがえぬ紺屋あわれなり》三遊亭圓生「覚え書」より

紺屋の白袴、というのは今でも通用するのでしょうが、紺屋のあさって、というのは通用しないでしょう。染めて干して、となると天気都合もありますから、仕上がるのはどうしたって“あさって”くらいになりますし、もっと遅れることだってあります。繁盛する紺屋ほどそうなるわけで、きちんと約束通りにやるような紺屋はあまり景気がよくない、という意味の川柳です。瓶のぞきというのは、瓶に漬けるのではなく、覗くというくらいにちょっと入れて染める早染めです。おもちゃ屋の馬生さんから教わった本来のサゲは、高尾が瓶にまたがっているので映ってやしないかとのぞく奴もあったので瓶のぞき、というところですが、今回は三代目の馬楽の速記にあるサゲでやってみました。本筋とは関係のない人物が出てきてサゲになるのもまた面白い手法ですし、落語ならではの自由なところです。久蔵はすでに年季のあけた職人です。年期十年(ねんじゅうねん)の奉公を終えているわけですが、だからといって誰でも自分の店をおいそれと持てるとは限りません。主人としてもヴェテランの職人は重宝ですから、年期があけても奉公している人はいくらもあったものです。高尾の方も近く年期があけるというのですから、花魁としてはもう若くはないのです。全盛は過ぎていたといってもいいでしょう。妾くらいならいいところからも口があったのかも知れませんが、堅い道を選んで花魁としてはめずらしく生涯を全うしたというわけです。爪ぐしというのは爪の生え際のことです。紺屋の職人はここが藍に染まっているんです。目白の糞で洗い落としますが、昔はよく小鳥の糞を使ったもので鶯の糞は顔を洗うのに使いました。香筺というのは香を入れておく小箱です。婦人にとっては大切なもので、その蓋をくれるということは、きっと夫婦になるからそれまではお互いに蓋と箱を分け持っていようという、いわば起請文を交わす代わりということでしょう。三浦屋の主人が玄関に出迎えるというところがありますが、こういう格式の高い店になると客も一流の紳士が来るので、主人も衣服を正して出迎えるというわけです。当初の吉原の最高級の遊びというのはそういうものだったのです。お玉ヶ池は千葉周作の道場もあった有名な地名です。和泉橋を渡って小伝馬町の方へ向ったあたり、今の神田岩本町二丁目のあたりです。