《すくもと藍玉》通常、染料としては「すくも」または「藍玉」を用います。その概要は、収穫した葉を乾燥(この状態を「葉藍」と呼びます)し、葉藍を堆積して発酵・腐熟させたものが「すくも」で、「すくも」を練り固めて運搬や保存をしやすくしたものが「藍玉」となります。すくも」の製造過程では、葉藍は色素以外の有機物が分解され、同時に染料成分(Indigotin)の浸出が容易になります。したがって、「すくも」製造の過程こそ、阿波藍の良否を決定する最も重要な作業といわれ、わが国のタデ藍にのみ見られる製法でもあります。
(1) すくもの製造法:広い土間にむしろを敷き詰め、水分を土中に降ろします。藍の葉を乾燥させたものを1~2t積み上げます。葉をむしろで包みます。包んだ中央部から醗酵が始まります。中央部が75℃になるまで醗酵させます。大量の藍の葉を包んだ巨大なむしろの中央の温度を計るために、すくも師はむしろの端の裏側に足を入れ、足に感じる温度からむしろの中央部が75℃に達しているかどうかを判断します。この作業は非常に難しく、長年の経験が必要です。むしろを広げて水をまきます。全体が均等に醗酵するために冷めないうちに天地返しをして、再度むしろで包みます。この作業を15回程度繰り返すと、たいへんなアンモニア臭を発散しながら、粘土状になってきます。発酵の調節は、発酵が進むにつれて潅水量を減らすこと、堆積を高くしてゆくこと、また莚を用いて上部や周囲を覆い重石を乗せる等して行います。通常は80日ほどで発酵が終わり暗褐色の固形物となり、「すくも」が出来あがります。染め職人はこのすくもを仕入れて2~3年寝かせたものを藍の液を作るときに使用します。保存するのは、寝かせた方が生地への定着が良くなるからです。
(2) 藍玉の製造:藍玉は、すくもを臼または藍練機で搗き固めたもので、運搬や保存を容易にするために加工されたものです。消費の盛んな頃は、よく藍玉の製造が行われたそうですが、最近はほとんど「すくも」のままで取引されています。
(3) 藍建法:カメに「藍玉」または「すくも」のほか、アルカリ(灰汁・石灰)糖分(日本酒、フスマ)等を入れ7日から10日間温湯を加えて加温・撹拌し、乳酸および酪酸発酵を起させることで、Indigotinを溶退させます。醗酵建ては、すくも中のバクテリアを繁殖させて、藍の液の中の空気を抜きます。バクテリアが繁殖するには25℃以上の温度が必要ですが、高すぎてもうまくいきません。溶液が腐熟するためには4~5日を要します。
(4) 藍の華:藍の液の善し悪しを職人は“藍の華”を見で判断します。藍の華とは染色液の中の空気が抜けて、水槽の中央にできる泡のことです。この泡が潰れない状態が良い藍の液ができた時で、すぐに藍の華が壊れる時はでき具合が良くありません。また、藍の液はそのままにしておけば腐ってしまうので、長期保存する場合は液の中に空気をたくさん入れ良くかき混ぜて寝かせるなど、きめこまやかな管理が必要です。染色は、この溶液に糸または布を浸して行ないますが、通常染め上がるまでに浸漬→着色→乾燥の操作を20回前後繰り返しています。
《阿波藍の起源》わが国における藍の起源は諸説があって一定していません。欽明天皇の時代に遣唐使がインド産の藍を持ち帰って播州に植えたのが始めともいわれていますが、インド産の藍はマメ科の植物であるので我が国のタデ藍とは原植物と異なります。したがって、インド輸入説に異論をもつ人も多く、むしろ中国輸入説が多くを占めています。また一説によると、僧曇徴の渡来前すでに藍が用いられていたともいわれています。藍を使って衣服の色を染めたのは、元明帝和銅7年(714)が始めで、染殿を造り縹色に染めて、一時禁色の如く尊んだとも伝えられています。一方、阿波における藍の起源は、蜂須賀家政公が阿波藩主に封じられてより30年後の、元和元年(1615)に播磨から移入されたのが始めであると多くの郷土史には記されています。しかし、それ以前からも阿波の藍は存在していたらしく、天保8年の「阿州藍草貢之記」によると、今から約1000年前、村上天皇の時に「諸国の藍の中で阿波から奉った藍が最もよい」と書かれていることからみると、すでに藍の産地であったようにも思われます。また、西野嘉右衛門氏も「阿波藍沿革史」のなかで、「蜂須賀入国の翌、天正14年(1586)に「紺屋司」を設け、さらにその翌年に紺屋役銭の上納を命じた・・・」などの記録から推察して蜂須賀公による移入説を否定しています。これらのことから藩政以前にかなりの藍作が行われていたものとも考えられますが、これが大量に商品化され藍を阿波の代名詞にまで特産化したのは、蜂須賀公が入国して以来のことになります。藍が、阿波の特産物として質量ともに全国を制覇するに至った理由を要約すれば、気候風土が藍の栽培に適していたこと、吉野川平野の治水の不備などにより稲作ができなかったこと、そして歴代藩主の周到な保護政策によるものと考えられています。なお、当時の施策について吉川祐輝氏は「阿波国藍作法」において、次のように述べています。明和3年(1766)に藍代官所を設け、その栽培を鼓舞する一方、集荷、販売には頗る厳重な取締りを行ない、阿波藩の大きな財源を得る道を開いた。ことに葉藍の売買は自由を許さず庄屋を通じて代官所に報告を義務づけ、これを犯したものは入牢せしめるなどの刑を設け、すくもおよび藍玉製造は許可制とし、製品は藍方役所に納付させ、他国への販売は藩がこれを指定して、要所に問屋を設け、問屋ごとに販売地域を限定して、競売を避けるなど周到緻密な制度が敷かれた。また、藩主江戸参勤の際、諸大名より藍種子の譲渡を受ければ、儀礼上種子は送るが、これをいぶして芽が出ないようにしたと伝えられ、種子の他国移出を厳重に禁じた。一方、藍の栽培法および藍玉の製造法についても一切の記載を許さず、藍師の出国を禁じ、万一他国へ逃れればこれを追って殺すなど阿波藍にまつわる悲話も少なくない。いずれにせよ藩の独裁的な施政によって、特産化されたのが阿波藍である。
考察:藍染めの工程を見るかぎりにおいて、その手間隙は想像を絶するほどである。それゆえに藍に染められた色は神秘の美しさである。とりわけ「縹色」は禁色とされるほど貴重であり、庶民には憧れであったに違いない。独特のアンモニア臭は、近寄りがたく、さらに醗酵を促すために「酒」や「フスマ」を与えるなどは、まるで魔術か妖術の世界を彷彿させる。「虫・蟲」に象徴される摩訶不思議な生き物が甕の中に住んでいるかのような錯覚にとらわれたかもしれない。その上、ムッとする藍床、火種を入れて温められた藍甕、藍づくり・藍染めの技術は秘伝とされ門外不出、職人たちは厳しい管理下におかれ、悲しい歴史があるという。これだけ出そろうと人々の偏見・差別を生み出したとしても不思議ではない。