《冠位十二階制》日本で始めて色彩が公式に象徴として使用されたのは聖徳太子の「冠位十二階制」に始まる。『日本書紀』によれば、603年(推古11)12月5日に制定され、翌年正月1日から実施されたもの。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二階があり、それぞれの冠はその階級にあたる色のきぬで縫い、頂には髻(もとどり)をおさめる袋状の部分をそなえ、下部にも縁飾りを着け、さらに元日には、大・小徳は金、大・小仁は豹の尾、大礼以下は鳥の尾でつくった飾りを挿したという。なお、『上宮聖徳法王帝説』は万物を生ずる五元素という木・火・土・金・水の〈五行に准じて〉冠位を定めたと記しているから、儒教の五常をこれにあてて配当した仁・礼・信・義・智の冠の色は、同じく五行に配当された青・赤・黄・白・黒と対応したものとみられる。さらに、その上に紫を加えたものである。紫が至上の色とされたのは、中国では天=北=玄=黒が至上の色とされていたが、北=黒の観念に陰陽五行説の正色・間色の概念が導入され、「紫 以水之黒克火之赤合、赤黒即紫。北方間色。水の黒を以て火に克つこれ赤と合して、赤黒即ち紫となる。北方の間色なり。」とあり、皇帝は紫衣を着ていたからだとされる。中国で皇帝の服色である紫が、日本では正四位以下の冠の色に充てられているのは注目される。大・小の色は647年(大化3)の服色の規定などから類推すると、深・浅によって区別したようである。高句麗に位階化した官職を十二等に分けた例や、新羅・百済に官位の階級を冠・帯の色で区別した例があるから、こういうものを参考にしたと思われるけれども、それらは官職と位階の区別が明確ではなく、各階級の名称も不統一であって、徳に五常を加えた六つの徳目を冠の名に選び、これを大小に分けるというような、理想主義をかかげた整然たる構成をもった制度は、他のどの国にもみられない。基数の六はあるいは六波羅蜜(ろくはらみつ)から出ているかもしれない。この冠位の制定には蘇我馬子の協力も考えられるが、聖徳太子の創出とみてきた古来の通説に従うべきであろう。もちろん冠を着ける中国の風習は、早くから朝鮮三国をへて日本に伝わったと思われ、事実、5世紀後半の古墳からも金銅冠などが出土しているから、推古朝初頭までは、天皇以下、朝廷を構成した人々のあいだに広くこの風習が及んでいたと思われる。冠位十二階の制は、そういう風習をふまえたうえで、国家の制度として新たに十二等級に分けた冠を制定し、天皇が、直接、個人に授けるものであった。したがってこれを着けたものは天皇の官人としてその地位を確認され、同時に冠の色によって層位づけられることになった。こうして朝廷の官人を新しい秩序に組み込もうとするものであり、冠は姓(カバネ)と違って世襲はされなかったが、その高下は実際には姓の大小とほぼ対応したろう。しかし、功績によって昇進した実例がみられるから、後世の律令の官位制につながる点も認められる。その点で人材登用という機能もみられよう。604年にこの冠位制が施行されたのは、この年が甲子にあたるから、辛酉革命・甲子革令説によったためであろうが、大局的にみると、そもそも冠位制度の成立をうながしたのは、607年の正式遣隋使派遣に先立って、国家の体面を飾るためであったろう。対等の外交を求めるためには対等の衣冠制度を整える必要があったろうし、中国側が衣冠制度に深い関心をもっていたことは、『隋書』がこの冠位制について詳しく記している点からも察することができる。ところでこの冠位の最高位の大・小徳は、後世の大宝・養老令の位階に対応させると正・従四位に相当するし、皇族も蘇我氏もこの冠位を授けられていない。天皇・皇太子にはそれぞれの冠があったろうが、蘇我大臣も同氏に伝えられてきた冠を、天皇の認証をえて着用したと思われる。おそらく推古天皇の下で、聖徳太子ともに天下の政を輔けた馬子は、その意味で冠位十二階を授ける側にあったらしい。また611年の薬猟(クスリガリ)のときに随行した官人の服の色は冠の色に従ったという。なお冠位を授けられた者の地域を調べると、おもに畿内(きない)およびその周辺に限られたようで、これは当時の朝廷の直接支配の範囲を示すと思われる。冠位制は大化改新以後、たびたびの改定をへて階数もしだいに増加するとともに、親王・大臣から地方の豪族にいたるまで全国にわたって授与の対象を広げ、やがて大宝・養老令の位階制度に移行した。
《七色一三階制》大化三年、大化改新以後の新政府は「七色一三階制」を施行した。「冠位十二階制」の徳・仁・礼・信・義・智を大小に分けて十二階制とするのをやめ、織・繍・紫・錦・青・黒という冠の材料や色で区別し、それぞれを大小に分け、最下位に建武の階を加えた。「冠位十二階制」が『大宝律令』での正四位以下の位階を定めていたのに対して、織は一位(正・従)、繍は二位(正・従)、紫は三位(正・従)となり、以下大錦が四位(正・従)、小錦が五位(正・従)、大青が六位(正・従)、小青が七位(正・従)、大黒が八位(正・従)、小黒が初位(正・従)となる。この制度は服色も定めており、織冠と繍冠が深紫(こきむらさき)、紫冠が浅紫(あさきむらさき)、錦冠が真緋(あけ)、青冠が紺(ふかきはなた)、黒冠が緑、建武は指定がない橡色か栗色であったとの説がある。しかし確証はされていない。「七色一三階制」は「冠位十二階制」に従三位以上の冠位を加えた制度といえる。紫の地位が高くなり、青・黒が下位に置かれている。また冠の色彩ではなく材料が重視されている。「七色一三階制」はその後、大化五年に大錦以下を細分化し十九階制とされた。大錦を大華(上・下)、小錦を小華(上・下)、大青を大山(上・下)、小青を小山(上・下)、大黒を大乙(上・下)、小黒を小乙(上・下)とし、最下位を立身とした。
《七色二六階制》十九階制とされた冠位服色制は、天智三年に大紫以上では繍が縫に変更され、大華以下では華が錦に戻され、錦・山・乙になり、それぞれが上・中・下に細分化された。さらに最下位の立身が建とされ、上下が設けられた。使用された染料はほぼ以前からのものと同様だが、紺と緑に藍が使用されるようになった。藤原鎌足(中臣鎌足)が死の直前の天智八年(六六九年)天智天皇から大織冠と大臣の位を授け,藤原の姓を賜うが、この大織冠がこの制度における最高位のものであった。
《四十八階制》冠位服色に関する制度は天武十四年に大きく変更された。「七色二六階制」の大織から小紫までを正位、大錦(上)から小錦(下)までを直位、大山を勤位、小山を務位、大乙を追位、小乙を進位とし、それぞれを細分化し四十八階とした。すなわち冠位名を正・直・勤・務・追・進という官僚に期待される徳目に変更した。使われた色彩は、まず親王以上が浄位とされて朱華(はねず)、正位が深紫、直位が浅紫、勤位が深緑、務位が浅緑、追位が深葡萄(ふかえび)、進位が浅葡萄(あさえび)であったとされる。葡萄色とは葡萄葛の実で染めたもので、暗い灰赤紫の色彩を呈する。「四十八階制」は持統四年(六八九年)『浄御原令』による改正をうけ、親王以上が明位・浄大一位から四位までと変更された。服色は明位が朱華、浄大一位以下二位以上が黒紫(ふかきむらさき)、浄大三位以下四位以上が赤紫(あかきむらさき)とされた。以下正位が赤紫、直位が緋、勤位が深緑、務位が浅緑、追位が深縹(ふかきはなだ)、進位が浅縹(あさきはなだ)となった。