《『養老律令』の「衣服令」》『大宝律令』(七〇一年)で、親王四階・諸王一四階・諸臣三十階の位階制度が採用されて、一世紀におよんだ冠位制は廃止された。『大宝律令』は「律」も「令」も全て失われている。『大宝律令』を引き継いだ『養老律令』では「律」の大部分が失われているが、「令」は『令義解』『令集解』によって復元できる。『養老律令』の「衣服令」とはいかなるものであろうか。「衣服令」は皇太子の礼服、親王の礼服、諸王の礼服、諸臣の礼服、朝服、制服、内親王の礼服、内命婦の礼服、朝服(女子)、制服(女子)、武官の礼服、朝服(武官)、制服(武官)よりなり、それぞれの位階の服色を定めている。「衣服令」における位階の色彩序列は「黄丹」、「紫」、「緋」、「緑」、「縹」、「黄」、「黒」となる。皇太子の「黄丹」を別にすれば、最上位の色彩は紫であり、その下に赤、青(緑を含む)、黄、と続き、最下層の色が黒である。あるいは紫、緋は紅、緑、縹は碧、黄は瑠黄として中国の間色の概念が導入されているとも考えられる。この序列では、まず中国では皇帝にあたる天皇の衣服の色が欠落している。黄丹を黄とし、中国の「黄帝」にあてはまるものとしても、皇太子は天子ではない。また律令制度が中国から導入されたにもかかわらず、中国で聖なる色とされた黒が最も下の階層の色とされ蔑まれている。紫が当時最上の階位を占めていた藤原氏の衣装を飾る色となっている。大化三年の「七色一三階制」のころまでは、深紫と浅紫は紫草の根、真緋は茜草の根、紺は月草の花の汁、緑は苅安草(がいあんそう?)と月草の組み合わせ、黒は橡色であり、「どんぐり」のかさを煮た汁で染めたとされる。天智三年の「七色二六階制」では、紺と緑に藍が使用されるようになった。当時使われた色彩の染料については、康保四年(九六七年)に施行された『延喜式』巻十四「縫殿寮 雑染用度」を参考にすることが出来る。『養老律令』の「衣服令」で位色とされた色を『延喜式』の中で見てみると、使われた染料は、黄櫨、紫草、紅花、支子(くちなし)、茜、蘇芳、搗橡、苅安草、藍である。黄櫨は櫨の樹皮から染料を採取されるが、実は木蝋を採るために使われる。紫草は染料であるとともに、根は紫色、乾燥したものを生薬の紫根といい、解毒剤・皮膚病薬とする。紅花は薬草でもあった。支子は梔子であり、乾した果実は生薬の山梔子として吐血・利尿剤である。茜は根から染料を採り、また生薬名を茜根といい、通経薬・止血薬である。蘇芳は明礬媒染で赤色、灰汁で赤紫、鉄媒染では紫色に染めることができる。搗橡は櫟から取られたもので、その実を黒染料として用いる。また樹皮や葉は薬用に供する。染料の多くが薬草であることが注目される。『養老律令』に至るまでの冠位・服色の変遷で疑問となるのが、最高者の天皇の冠位、服色について何も書かれていないことである。『養老律令』衣服令は皇太子の服色についての記述から始まっている。なぜ天皇の衣裳は記されなかったのか。それは、天皇が神と考えられていた日本の神話に関係があると思われる。中国では皇帝は天子であるが、日本で天皇は神であると理解されたからではないかとしている。中国では、天頂=天の北極こそ天帝の座であり、夜の色すなわち黒こそ、万物を支配する天帝の色彩であった。さらに天の北極に位相的にもっとも近い地上の北が、四方向のなかでも特に聖なる方向とされ、黒が配色されていることとなる。天帝の子である天子は黒の間色である紫の衣を身に付け、紫宸殿から南面するのである。それに対して日本では明るいもの、光の源泉、太陽が神である。女神アマテラスは太陽である。夜に闇でも男神ツクヨミすなわち月と、星の神々が白く光る神として支配している。古来神器とされた鏡は光るものであった。中秋節に白玉団子を七・五・三に盛ってそなえる風習は、わが国固有の神話的思考をしめしている。これらのことから天皇の服色は白(あるいは明色の黄)であったことは充分想像される。日本古来の色は、青・白・赤・黒であった。青・白と赤・黒は対の概念で考えられてきたとされる。『古事記』「天の岩屋戸」では「下枝に白和幣・青和幣を取り垂でて」と出てくることや、新年祭などにおける祝詞における青雲・白雲の文句などから、青と白の色は古来祭祀に関わるとされる。青・白の色彩シンボリズムは、祭祀・王権という中心の色彩である。さらに「崇神天皇 三輪山の大物主神」で大物主神の神託に応えて「宇陀の墨坂神に赤色の楯矛を祭り、また大坂神に墨色の楯矛を祭り」『古事記』とあることから、赤と黒がセットで青・白と同様に祭祀に関わる。赤・黒は、崇神天皇が要路の境界点たる墨坂神・大坂神を赤・黒の楯・矛をもって祀ったように境界の色彩であって、祭祀についても国つ神であるとされる。このように古来の青・白・赤・黒については宇宙観から象徴づけられていたが、冠位令・衣服令の色彩に、絶対的な象徴性を感じることは出来ない。『養老律令』「衣服令」は厳格に位色を決めているが、各位色の象徴としての根拠は希薄である。皇太子の位色をのぞけば、鮮やかな色彩を高い位の服色としたことぐらいしか位色の理由を見いだせない。最高位者ではないものが紫を服色とし、中国で重んじられた黒が最下位のものの服色とされた。中国から律令制は導入されたが、色彩シンボリズムは導入されなかった。それは独立国としての独自性の発揮だったのか、壬申の乱などによる混乱の中、色彩の象徴の意識が混乱したからなのか。秩序全体における色彩の絶対性の欠如は、厳格に決定されたはずの位色が、十一世紀以降四位以上が黒とされるように安易な変更を許している。さらに相対的な認識を越えることが出来ない色彩シンボリズムは、十二世紀以後力を増した武家において、その独自性を示すため上位の公家の服色である黒を凶色として避け、朝廷の役人の最下位の服色であった浅縹を武家の最高の礼服としたことからも知ることが出来る。
http://www.kdcnet.ac.jp/bigaku/Researc/ifukurei/ifukurei.html
位階・位号の推移⇒http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/r_ikai.html
《五色の賤》七世紀、大宝律令後の身分制度は、陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢を五色、つまり五種類の賤民と称された。陵戸は先皇の陵に配され、これを守護する者であった(喪葬令)。その実態は、『延喜式』巻21、諸陵寮の条からうかがえる。官戸は、官司の雑役に駆使される賤民である。「戸令集解」によれば、良民が刑罰によって降されたもの、官奴婢で66歳以上に達したもの、または廃疾のもの、家人・奴婢が主家のものと通じて生まれた子をもって官人としたという。家人は、奴婢に類するが、家族を構成することが許され、頭を尽して駆使されることがなかった。公奴婢は政府所有の奴婢、私奴婢は個人所有の奴婢である。奴婢は五色の賤の最下層で家族構成も認められなかった。これらの賤民は、「当色、婚を成せ」(戸令)と規定されるように、陵戸は陵戸としか通婚することができなかった。官戸・公奴婢の戸籍は、別につくられ、本司と太政官に送られる規定であった。公奴婢は76歳以上に達すると開放されて、良民とされた。しかし、古代国家の衰退とともに、良民と賤民の間の通婚が増え、また逃亡する奴婢もあとを絶たなくなって、907年の延喜格(律令の補助法)で「奴婢の停止」が定められたことにより、制度的に消滅した。
《高松塚“謎の色”再現》奈良県明日香村・高松塚古墳の西壁に描かれていた女子群像四体のうちで、色落ちしているためこれまで謎とされていた女子像一体の服色は高崎市在住の染色家・山崎青樹氏(81)が推定していた「浅紫」の可能性が高まった。すでに彩色が鮮明な三体を再現しているが、今回新たに「浅紫の衣」を再現した。四体そろった再現装束は高崎市染料植物園特別展で公開される。草木染の第一人者で、同市内に研究所を持つ山崎氏は、植物染色のテーマーパーク「高崎市染料植物園」とのかかわりが深く、開園十周年記念企画展で、高松塚古墳「西壁の女子群像」四体のうち、三体の古代装束を再現して大きな反響を呼んだ。その際に、残り一体の服装の色が話題になり、長年、古代染色の研究と考察を重ねてきた山崎氏も心残りだったという。山崎氏は、これまでも当時の「養老律令」の衣服令などの文献や正倉院に残る古代の布などを調査していた。色落ちが激しく、一体の服色は不明だった。当初、白色とみられていたが、白色は地位の高い色で、山崎氏は長年の研究から「おそらく浅紫であろう」と推測していた。その後、東京文化財研究所が、同一人物が描いたと思われる「東壁の女子群像」を偏光近赤外線撮影したところ、白色とみられていた一体から薄紫色を検出。山崎氏の説を裏付ける結果となり、不明だった西壁の一体も「浅紫」の可能性が高まった。再現された「浅紫の衣」は、埼玉県の国営武蔵丘陵森林公園で栽培したムラサキ草を使い、染めあげた絹糸を手織りし、上衣、下衣、帯、はかまの四点を二人の息子が手伝い約半年がかりで仕上げた。山崎氏は「白は天皇の色で、絶対ありえない。私が思っていた通り、服装の色がハッキリした。間違いないだろうということで再現した。これで四体そろった」と話している。日本の染色は、飛鳥・奈良時代に完成されたと言われています。推古11年(603年)に聖徳太子らによって制定された冠位十二階は、日本の冠位制度の始まりであって、階級を冠の色で表し、服色もこれにならって紫、青、赤、黄、白、黒の順で表されていました。また、法隆寺献納宝物や正倉院宝物の錦裂に見られるように、奈良時代にはムラサキ、アカネ、ベニバナ、キハダなどの染料を使用した高度な染色技術による多様の色彩がありました。これらの染色文化は、仏教文化とともに中国や朝鮮半島からもたらされたものであると言われています。奈良県明日香村にある高松塚古墳の壁画は、古代の服装と服色を知る上で貴重な資料となっています。この展覧会では、染色家・山崎青樹氏が長年にわたる古代染色の研究を基に、同壁画に描かれている西壁の女子群像を養老律令の衣服令に重ね合わせ、考察し制作した4人の装束と、日本の染色の基本となった飛鳥・奈良の色を展示し、秘められた古代人の服色の源流に迫るものです。(染料植物園特別展ニュースより)画像:高松塚古墳西壁女子群像(山崎青樹氏制作)