青の伝説(43) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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青本

《青本》草双紙は、江戸時代の戯作文芸の一種で、絵を中心に仮名で筋書きが書き込まれた物語。絵草紙(絵双紙)または単に絵本と呼ばれることもあった。子供向けのものが多かったが、次第に大人向けの洒落たものや滑稽なものが書かれるようになった。赤本、子供向けの読み物。桃太郎などの昔話や絵解きなど、教育的な要素が強く、正月の贈答品にもなっていた。享保の頃が全盛期。 黒本表紙の色から黒本という。敵討ちなどの忠義や武勇伝、浄瑠璃・歌舞伎など多様な内容になってきた。青本と前後して流行するが、体裁が野暮ったいとして早くすたれた。 青本黄色の表紙(黄色を青と称した)で、少年や女性向けに芝居の筋書きなどを書いたもの。おとぎ話、歌舞伎・浄瑠璃物、歴史物などがある。黒本と前後して流行し、内容も似たようなものであるが、明和・安永の初めが全盛期で、しだいに男女の恋愛や遊里なども取上げられるようになった(大人向けの黄表紙というジャンルが生まれるが、同時代にはまとめて青本と呼ばれていた)。 黄表紙大人向けの娯楽性が強い本。筋書き以上に、言葉や絵の端々に仕組まれた遊びの要素を読み解くことに楽しみがあった。表紙の色は黄色で当時は青本と区別されていなかった。明和4年に刊行された恋川春町の『金々先生栄花夢』が黄表紙の代表作であり、のちにはこれ以降の草双紙を黄表紙として青本と区別するようになった。フキダシの様なものが描かれるなど現代の漫画に通じる表現技法を持つ。 合巻長編化し、三冊を超える分冊になったものを一巻に綴じたもの。絵入りだが、内容も比較的読本に近い。草双紙と言えば合巻のことを指すこともある。柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』などが代表作である。やがて天保の改革の好色画・好色本禁圧によって人情本が衰退すると、人情本の読者が合巻に流れて刊行点数が増大した。また改革の影響で既存の版元の枠組みが崩れたことにより、新興の版元が多くの合巻を出版するようになった。明治に入ると合巻の作者は執筆の場を新聞の連載小説に移し、新たな読者層を獲得した。また活版印刷の導入によって絵に対して文章の比重が高まったほか発行部数の増大などの変化があった。

現在の文学史では、草双紙は赤本、黒本青本、黄表紙、合巻と、ほぼ年次的に展開されたと認識されている。これらの呼称は表紙の色など本の体裁に拠るもの。ただし、青本と黄表紙については、表紙の色は同じで、刊行当時の呼称は共に「青本」であった。黄表紙とは、「青本」の内、安永4年(1775)以降に刊行されたものを一括して指し示すために後に付けられた呼称である。安永4年で両者が区別されるのは、安永四年刊『金々先生栄花夢』の誕生をもってそれ以降の草双紙の在り方が大きく転換されたとの認識に基づいている。その認識を決定づけた原因として考えられるのが、天明元年の大田南畝の黄表紙評判記『菊寿草』の存在。これは安永十年(天明元年、1781)正月刊行の黄表紙47部を役者評判記に見立てて位付けしたもので、その序文に以下のような一節がある。
それ鱗はこけ也。こけはすなはち不通なり。今天下に大通の道行はれ、こけはさら/\入用なし。上は北条のおれき/\、下は汝らごときの町人、貴賎上下ひつくるんで、皆大通へみちびかんと、こけやううろこは此方へせしめうるしと出かけたり。しかれども汝が家はふるき家にて、源のより信の御内にまいりては、から紙表紙一重へだてゝ、竹つな金平の用をもきゝ、花さき爺が時代には、桃太郎鬼が島の支度を請負、舌きり雀のちうを尽し、兎の手がらの数をしらず。そのゝち代々の記録をつかさどり、青本/\ともてはやされ、かまくらの一の鳥居のほとりに住居し、清信きよ倍清満などゝ力をあはせ、年/\の新板世上に流布す。しかるに中むかし、宝りやく十年辰のとし、丸小が板、丈阿戯作の草紙に始て作者の名をあらはし、外題の絵を紅摺にしていだせしを、その比はまだ錦絵もなき時代なれば、めづらしき事に思ひ、所々より出る草紙の外題、みな色ずりとなりたりしが、汝ばかりは古風を守り、赤い色紙に青い短冊、たいのみそずにによもの赤、のみかけ山のかんがらす、大木のはへぎはでふといの根、がてんか/\位のしやれなりしも、思へば/\むかしにて、二十余年の栄花の夢、きん/\先生といへる通人一変して、どうやらこうやら草双紙といかのぼりは、おとなの物になつたるもおかし。
これは草双紙の沿革を示したもので、丸小板の丈阿の署名がある作品や同時期の他の板元の作品に関する言及はあるものの、全体としては「鱗」つまり鱗形屋の話をしている。これは鱗形屋を中心に据えた草双紙観を示しているのであって、他の板元の作品を含めた草双紙全体に対する認識を示したものとはいえない。しかし、この「二十余年の栄花の夢、き/\先生といへる通人一変して、どうやらこうやら草双紙といかのぼりは、おとなの物になつたる」という描写は、「青本」の中から「黄表紙」を特別なものとして別個に扱うという今日の文学史上の認識と通じるものがある。このような文学史観が今日にまで通用してきたことから考えると、黄表紙を「青本」ではなく「黄表紙」と位置付けるに足るだけの文学性の違いが両者にはあり、当時の人々がそれを十分認識していたことは確かである。ただし、大田南畝や恋川春町が先駆けて鱗形屋の赤本および黒本青本を当世風でない、時代遅れなものの象徴として作品の趣向に用いた後、様々な黄表紙作者によってそれが踏襲され、次第に実際の赤本および黒本青本の在り方とは異なるかたちで黄表紙の中でのそれらの姿が象徴化されていったということを考慮すると、安永4年『金々先生栄花夢』以降は全て黄表紙で「おとなの物」、それ以前は子供のものという認識を素直に受け容れるわけにはいかない。実際、宝暦・明和期以来黒本青本を手掛けてきた画作者は安永4年以降しばらくは新板を刊行しているし、再摺や改題本の刊行もなされていたようである。人々にとって、黒本青本らしい内容を持った草双紙は決して遠い存在ではなかったことも想像できる。