「薩婆多論」について調べてみましたが・・・
《南都六宗》
奈良時代を最盛期として平城京中心に活動した六仏教宗派の総称名辞。天台・真言両宗の平安二宗に対する名辞で,三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗の六宗によりなる。六宗は大陸・半島からもたらされた中国仏教の関係宗派を淵源として成立した。中国諸宗派の摂取・受容に際し,おもに宗義の解明のための研究を中心として臨む,宗派別の宗義研究学衆が各寺院内に編成された。三論衆などと呼ばれるのはもともとこれらの学衆の呼び名であるが,やがて宗学派そのものの呼称となった。各学衆はそれぞれ各寺院に分住して宗学の研究に従事し,また学衆個人は他の宗学を兼学したため,一寺一宗,一人専宗という宗学研究の形態をとることはなかった。
《倶舎宗》
世親の阿毘達磨倶舎論(アビダルマコーシャ)およびその注釈書を中心として諸経論を研究・講義し、師資相承する学僧たちのグループ。倶舎衆、薩婆多(さっばた)宗ともよばれた。インドやチベットにおいて倶舎論は、仏教教理学の必修科目として研究・講義され、中国においても真諦によって摂大乗論などとともに漢訳され(566年-567年)、さらに玄奘によって多数の唯識学系統の経論とともに再訳されて(654年)以後、それぞれ摂論学派と法相唯識学派の学統において研究・講義され、いくつかの重要な注疏がつくられた。日本においては、元興寺禅院の開祖の道昭が661年に帰朝の際に、倶舎論および注疏を招来したと考えられる。しかし、「倶舎宗」という宗派が公的に制定されるのは、天平勝宝年間(749年-757年)の東大寺においてであろう。そのころ、この宗派が大仏開眼供養にちなんで南都六宗の一つとして自宗関係の多数の経論を転読講説していることが分かっている。奈良時代以後は元興寺(南寺)と興福寺(北寺)を中心とする法相宗の付宗として伝統が伝えられた。
●問う、法衣の色に但薄墨を用うる其の謂われ如何。答う、亦多意有り。一には是れ名字即を表するが故なり。謂わく、末法は是れ本未有善の衆生にして最初下種の時なり、然るに名字即は是れ下種の位なり、故に荊渓の云わく、聞法を種と為す等云々。聞法豈名字に非ずや、為種豈下種の位に非ずや。故に名字即を表して但薄墨を用うるなり。二には是れ他宗に簡異せんが為めなり。謂わく、当世の他宗名利の輩内徳を修せず、専ら外相を荘り綾羅錦繍以って其の身に纏い、青黄の五綵衆生を耀動す。真紫の上色・金襴の大衣は夫人孺子をして愛敬の想いを生ぜしめ、以って衆人の供養を俟つなり。今此くの如きの輩に簡異せんが為めに但薄墨を用うるなり、薩婆多論に外道と異にせんが為めに三衣を著すと言うは是れなり。
ネットで薩婆多論は数多くヒットするのですが、残念ながらほとんどが中国語(漢字ばかりの文章)のため意味不明でした。