青の伝説(16) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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清明上河図

『雍州府志』以外では、「慶長見聞記(慶長19年-1614年風俗や人情話)」に“青屋は穢多の下なり”と書かれ、享保の弾左衛門書上にも“青屋は穢多の下に付くべきもの”とあります。上方では「芸苑日渉(1807年随筆)」に“浴肆、藍染家のごとし、またこれを屠戸に比す”とありますが、いずれも江戸時代の文献であり、さらに古い資料を探す必要があります。喜田貞吉さんの「青屋考」には“「大方等陀羅尼経」や「薩婆多論」については未見であり、信用できる文献かどうか疑問である”と述べていますので、このあたりを調べてみることにしました。

《大方等陀羅尼経》

①天台大師智顗における『大方等陀羅尼経』への視点

②日因私に云はく凡そ三衣は即二種あり、一には俗弟子の三衣、二は出家弟子の三衣なり、所謂る出家の三衣とは即ち上中下の袈裟なり、俗弟子の三衣とは大方等陀羅尼経に云はく在家の行者髪を除かず応に三衣六物を畜へ道場に至り比丘浜の如く浄行を修行すべし、阿難仏に問ひ言して云はく何ぞ三衣を具する、仏告げて言はく三衣とは一には単縫衣と名く二には俗服と名く、阿難仏に白して言はく世尊向きに説く一には出家衣、二には在家服と、若し在家は三種を用ひんや否や、仏告げて云はく一に出家の衣は三世の諸仏の法式を作る、二には俗服は我か弟子をして道場に赴かしめんと欲する時、当に一服を著け、常に身に随逐し寸尺も離れざるべし、若し此の衣を離れば即ち障道罪を得、第三の衣は俗服に具し将に道場に至らんとするとき常に用ひて坐起せよと云云。

③問ふ俗の服衣を以て名て三衣とする証文如何、答ふ法苑珠林第四十七三に大方陀羅尼経を引き云く仏言く若し道場に趣向する応に比丘法の如く諸の浄行を修すべし、三衣楊枝、澡水、食器、座具を具う、行者是の如く応に畜うべき、仏道場に至るに比丘の法の如くせん、仏阿難に告はく衣に三種有り一には出家衣とは三世諸仏の法式をなす、二に俗服とは我弟子道場に趣く説き当に一の服を著せしむ、常に身に随逐し寸尺も離さず、若し此の衣を離るれば即障道罪を得、第三の衣とは俗服を具して将に道場に至るべし常に用いて坐起せよ、其名是の如し汝当に受持すべし已上、但し此文は是れ在家の弟子大方等陀羅尼経典を修行し道場に赴く説き三衣等を具するを説く文なり、然るに今の文は畧なり、彼の文に云く阿難仏に白す此の行者家を辞し出る説き応に是の如く語るべし。

④又云く「陀羅尼呪を誦し三宝十仏を請じ、摩訶祖持陀羅尼を思惟せよ」と文。此の釈は方等陀羅尼経に依る。半行半坐三昧の下。

⑤今疑ふ、如来の所説始め華厳より終り涅槃に至るまで、五時・四教の為に統摂せざる所無し。今此の毘盧遮那経を以て、何の部何の時何の教にか之を摂せん。又法華の前説とや為さん、当に法華の後説とや為さん。此の義云何。答ふ、謹て経文を尋ぬるに方等部に属す。声聞・縁覚に被らしむるが故に、不空羂索・大宝積・大集・大方等・金光明・維摩・楞伽・思益等の経と同味なり。四教・四仏・四土を具す。
⑥今毘盧遮那経法界宮に於て説くことを顕す。乃ち是れ法身の寂光土なり。勝に従て名を受くるなり。前後詳明すべし」云云。

⑦中国では、懺悔法の確立は、智顗からであり、先に申し上げました『法華三昧懺儀』による法華の懺悔、『大方等陀羅尼経』による方等三昧の懺悔、『普賢観経』による普賢三昧の懺悔、『請観音経』による観音の懺悔などが有名であります。

とまあ、『大方等陀羅尼経』の出てくる文章を羅列してみましたが、なんのことかさっぱりわかりません。金剛峯寺に南宋時代の『大方等陀羅尼経』巻第一が収蔵されているようですが、中国11~12世紀のものです。南宋北宋時代の有名な絵巻に「清明上河図」があります。北宋の張択端(12世紀前半の画家)が描いたとされる元になった絵巻(北京故宮博物院所蔵)が有名であったために、多くの模本が描かれました。現在では40点以上の模本が知られており、絵巻の形式の風俗を描いた細密画であり、絵はすべて連続しています。