青の伝説(15) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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紺屋

《紺屋と青屋》

鶴屋南北の出身は紺屋であって青屋ではない。紺屋と青屋はどのような関係にあったのか。近世の上方において、青屋と紺屋に区別があったことは、山本尚友氏が論文でのべておられる。氏は、山川隆平氏の論考「徳川時代の京染屋雑考」(『上方』一〇二号)が引用する「紺屋仲間定書」と「藍本染仲間定書」という二つの史料によって、十八世紀半ばの宝暦年間の京都において、紺屋と藍染屋とはべつべつの組合を結成しており、この藍染屋こそが青屋であったと結論づけている。上方で青屋と紺屋に区別があり、青屋は賎民の支配下にあったが、紺屋はその支配をうけてはいなかった。このことはみとめられる。しかし、賎民側はこの紺屋をも支配下におこうとして争いをおこしていた。『諸式留帳』におさめられている宝永七年(一七一〇)六月に天部村、六条村、川崎村の年寄たちが、奉行所に提出した文書によると、青屋と紺屋の中間に位置する〈かせ染紺屋〉という名称の連中が、青屋役を命じられていた。この文書がしるすことときの事件の経過はつぎのようなものであった。京の大宮通西寺内一町目上ル半町青屋治兵衛、同鍛冶屋町五条上ル町青屋平右衛門、同本誓願寺通り千本東入ル町米屋与三次の三名は、紺屋をしているので、青屋役をつとめるいわれはないと、牢屋敷外番をつとめようとしなかった。これにたいして、賎民村の年寄たちはつぎのように主張した。彼ら三名のほかにも、京都の町中に「青屋紺屋」といって二つの商売をしている者たちが多くいる。出身が何であろうと、「青屋紺屋」をしている者は、古来、青屋役をつとめてきている。右の三名の者にも青屋役をつとめるよう命じて欲しい。この主張がとおって、右の三名の「かせ染紺屋」にたいし、青屋役をつとめるよう命令が出されている。事件の争点は、結局、紺屋を青屋同様に賎民支配におくかどうかにある。奉行所は、しかし、紺屋をすぐに賎民とすることはみとめず、「かせ染紺屋」という境界的名称を設定し、賎民支配にくみこむことによって決着をはかったのであった。紺屋を支配下におこうとする賎民側の努力はそのあともつづけられていた。享保六年(一七二一)十一月には、京の賎民たちが、市中の紺屋にたいし、「青屋なみの役義」を負担させようと願い出た事件がおきていた。『諸式留帳』におさめる天部村、六条村、川崎村の年寄九名連記の願書によって事件の経過がうかがわれる。京の町中に、紺屋で、近年藍壷を多くすえて藍染めをする者がいるために、藍染屋のなかには商売をやめる者も出て、集まる銭もすくなくなって、私どもの配下の者どもも、ことのほか、困窮して迷惑しています。右の藍染屋から一軒につき一か年に役銭として三匁ずつ出しています。わずかな額ですが、私どもにとっては、ことのほか、お救いにもなっておりますので、藍壷をすえている紺屋からいくらかでも私どもに代価を出すようおおせつけてくださればありがたく存じます。藍壷の有無を紺屋と青屋(藍染屋)を分ける目安としている。しかし、藍壷をおかずに紺屋の商売が成りたつともおもわれず、紺屋と青屋の区別は、慣習的なものが大きくはたらいていたとみられる。江戸でも青屋と紺屋の区別は存在したとおもわれるが、江戸の染色業者はすべて新興の人たちであり、はじめから紺屋を名のって、賎民支配をまぬがれようとしたはずである。したがって、えた頭弾左衛門は、全国えた総支配の面目にかけても、この紺屋を自分の支配下におこうとした。弾左衛門の戦略は、京におけるばあいとおなじく、青屋の名称をあいまいにしていって、紺屋をそのあいまいな名称のなかに包括していこうとするばあいと、紺屋の名称のままで直接に賎民支配におこうとするばあいの二つがあったことが、幾種ものこされている例の賎民支配の職種を列記した由緒書によって判断される。前者の例としては、宝永四年九月(藍屋)宝永五年三月(紫屋)享保十年九月(染物屋)などがあり、紺屋と明記した後者の由緒書には、享保十年二月に西国長吏頭へ宛てたもの、文化十年閏十一月写しの肥前国長吏頭へ宛てたもの、年代未詳の京の下村庄助と連名の細工人由緒書(赤穂部落文書)などがある。ことに注目されるのは、宝永六年(一七〇九)十二月、弾左衛門家から弾左衛門没後の相続の件で幕府に提出した文書である。そのなかで、京の長吏下村庄助が「地方で禄高を百五十石頂戴し、そのうえ紺屋の上前をうけている」と明記している。江戸の賎民頭にとっては紺屋はまぎれもなく青屋であった。