青の伝説(14) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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鶴屋

《鶴屋南北》

宝暦5年(1755年)~文政12年11月27日(1829年12月22日)。日本の江戸時代後期に活躍した歌舞伎狂言の作者。一般的に「鶴屋南北」といった場合、「大南北」と呼ばれる四世を指す。鶴屋南北は、一世から三世までが役者であり、四世と五世は狂言作者である。江戸日本橋に生まれる。幼名を勝次郎、通称を源蔵といった。紺屋職である父の海老屋伊三郎とともに紺屋を生業としていたが、生来の芝居好きのため狂言作者を志して初代桜田治助の門に入り、のち金井三笑に師事する。最初は、桜田兵蔵と名乗り、ついで沢兵蔵、勝俵蔵と名を改め、1804年には立作者となった。1811年に四世南北を襲名した。おもな作品に、「天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)」、「於染久松色讀販(うきなのよみうり)」「心謎解色糸」、「謎帯一寸徳兵衛」、「容賀扇曽我」、「八重霞曽我組糸」、「隅田川花御所染」、「東海道四谷怪談」などがある。

紺屋》

歌舞伎と賤民との関係は、歌舞伎をふくめて、ひろく芸能を自己の支配下におこうとした賤民側にたいし、その支配からのがれようとした歌舞伎関係者の抵抗としてとらえることができ、しかも、時々の幕府の意向がそこに大きくはたらきかけて、動向を左右してきた。そうした動向のなかで伝記や作風についてのいくつかの問題点を解明できるのが四世鶴屋南北である。鶴屋南北の生まれた場所については、江戸日本橋の乗物町とする『作者店おろし』(三升屋二三治)の説と、日本橋の元浜町とする『戯作者小伝』(岩本活東子)のつたえる北斎の説があるが、両者ともにその出身を紺屋とする点では一致している。この紺屋を、近世において賤民側が自分たちの支配下におこうと画策してきたことは、各種の資料からみて、疑うことはできない。紺屋は京では青屋とよばれた。この青屋が賤民として中世以来えた頭の支配下にあり、関西ではえたの仲間とみられていたことについては、はやく喜田貞吉が大正八年(一九一九)七月に発表した「青屋考」(『民族と歴史』)によってあきらかである。京都については貞享元年(一六八四)に成立した地理と歴史の案内書『雍州府志』につぎのようにのべられている。およそ京都の市中市外の紺屋で、藍汁で衣服を染める者を青屋といい、また藍屋ともいい、紺屋は染色業者の通称である。そのうち青屋はもともとえたの仲間であり、刑罰のあるたびに刑場に出かけ、はりつけやさらし首の業務を担当する。この記事は、『京都御役所大概覚書六』におさめる享保二年(一七一七)発布の法令「えたや青屋の任務について(穢多青屋勤方之事)」のつぎのように列挙されていることによって確認される。粟田口での鋸びきの処刑・同所での火あぶりの処刑・はりつけの処刑・首切りとさらし首の処刑・西土手での首切りなどがあるときには出勤し、東西の処刑場所の掃除、牢屋敷内外の掃除などの任務をつとめる。青屋は、はじめ直接にこれらの役にあたっていたが、十八世紀はじめの宝永年代くらいからは、分担金を出すだけで、実際の仕事は、京の天部村以下の六か村の賎民村のおこなったとするのが、喜田貞吉以来の通説であったが、これには、山本尚友氏の異論が提出されたことがあった。山本氏は、「新青屋考」という論文(『京都部落史研究所紀要4』一九八四年三月)中に、やはり前掲の『京都御役所向大概覚書六』から、京都市中市外の青屋たちには、粟田口ならびに西土手で斬罪などがおこなわれたさいに、五か村と合同で役割をつとめさせている。以前は青屋たちが直接におもむいて任務をつとめていたが、寛永年代からはその任務の代りに一か年、一軒につき銀六匁づつうけとり、右の五か村から人足を出してつとめた。斬罪などの任務につく人足の多い、少ないにかかわらず、右のとおりの額を毎年うけとっている。しかし、この文中に「寛永」とある年号は、つぎにあげるいくつかの理由によって「宝永」の誤りと考えられる。おなじ『京都御役所向大概覚書六』につぎのような内容の文がおさめられている。以前、えた頭下村文六は、二条城城内の掃除、斬罪の任務などを、京の賎民村五か村、近在十三か村、近江の十三か村ならびに青屋とともにつとめていた。しかし、文六が死去したのちは、二条城城内の掃除をこれらの村々はつとめなくなり、その代りとして、牢屋敷外の勤務を命じられた。この文によって、京都えた頭下村文六の死が契機となって、京都内外の賎民の業務に変化のあったことがあきらかになる。えた頭下村文六が死んだのは、宝永五年(一七〇八)の七月二十六日であったことは、『諸式留帳』(『日本庶民生活史料集成』)によってたしかめられる。また、おなじ『京都御役所向大概覚書二』によると、宝永五年に文六が病死したとき、「末期の願いもかなわず」朱印をとりあげられ、二条城の掃除の役をやめさせられて、牢屋敷外番の役を命じられたとある。宝永七年(一七一〇)の四月十八日、右の二条城掃除役のために生前下村文六がさしだしていた人数について、天部村以下の年寄に問いあわせがあり、文六の所持していた帳面の写しが提出されたことがあり、その内容が『諸式留帳』にのせられている。そこには、各村々から供出された人足数とならべて、「千人 青屋」と明記されている。かなりの人数を青屋がえた役のためにさしだしていたことがわかる。そこで問題になるのが、山本氏引用の『京都御役所向大概覚書六』の文である。これを『諸式留帳』にのせるつぎの一文、洛中洛外の青屋どもがつとめていた任務は、粟田口、西の土手の断罪処刑の役であった。以前は、青屋もともに直接におもむいてつとめていたが、宝永年中から人足の代銀として、一か年に一軒につき銀三匁ずつうけとって、右の六か村がつとめるようになった。と比較してみると、内容なまったく同様で、「寛永」が「宝永」の誤りであったことが判明する。まえの文で「六匁」が「三匁」となっているのは、代銀が、京都役所と実際に任務を代行した賎民村とで折半されたためであろう。