青の伝説(13) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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府誌

《『雍州府志』》

浅野家に仕えた儒医で歴史家の黒川道祐(?-1691)のまとめた山城国の地誌。天和2年(1682)4月までに書きためたものを10冊に編集して、貞享3年(1686)頃に成立したと言われている。京都に風土記の存在しないことを憂えた著者道祐は職を辞した後、洛中洛外とその近郊をたびたび歩いて地理を考察し、古記録・金石文を書き留めその精密な探査に基づいて、中国の地誌『大明一統誌』に模して本書を著した。京都の地理・沿革・寺社・土産・古跡等が詳記される。平安京は中国・長安をモデルに創られ、この長安の所在地が雍州であったことから、平安京の所在地を雍州といったことがこの書名の由来。また「府誌」とは地方誌という意味を持っている。近世「山城国風土記」にして京都大百科事典たる書2002年に訓読文体・現代仮名遣い・活字版が岩波文庫から出版された(上下2冊、各760円、ただし下巻は未発行)。文庫本出版に際し「近世(江戸時代のこと)京都案内」と副題されている。

《黒川道祐》
道祐は名を元逸(玄逸)といった。道祐はその字である。静庵、遠碧軒、梅林村隠などと号した。儒を林羅山に学び、医を堀正意(杏庵)に学んだと伝えられる。正意は道祐の外祖父にあたり、曲直瀬正純のもとに医を学び、藤原惺窩に儒を学んだという。道祐の生年は明らかでない。一説には元和八年(一六二二)とある。道祐は業成ったのち、芸州侯に医を以て仕えたが、ほどなく辞して、京都に移り住む。京都での道祐の生活は詳らかでないが、寛文三年(一六六三)には、『本朝医考』を完成している。その間、京都遊学をしていた医師、本草家である貝原益軒と知り合い、生涯を通じての友情が育まれている。道祐は本草に関する見識をうかがうに足る『雍州府志』を著しており、遠藤元理の『本草弁疑』に序を寄せてもいる。これによって、本草に関しては、知識としても、実際上の面でも一家言をもっていたことがわかる。道祐は元禄四年(一六九一)京都で没した。京都市上京区智恵光院通の本隆寺に墓がある。『本朝医考』は道祐の主著で、本邦における医史学書の嚆矢である。上中下三巻よりなり、巻頭に林家二代の林鵞峰の序がのせられている。「芸州の医官法眼黒川道祐、国史を窺い、旧記を考え、演史を猟り、小説を択び、禅徒の残藁を閲して、医家の出処、術業および叙位、産薬等の事を抄す。且つ近世聞見するところを加えて、聚めて三巻となし、本朝医考と号す」と本書成立の経緯を述べ、「今より後、医家の典故はそれ祐に問わんのみ」と道祐の功を讃えている。上・中巻では大己貴命よりはじめて和気・丹波両氏、吉田氏、曲直瀬一門、高取流外科、馬嶋流眼科に及ぶわが国有名医家の伝記を記している。下巻では推古朝以来の疾病史、医療史を述べ、さらに各地に産する妙薬を記している。『本朝医考』のほかに、道祐の主要著書としては『雍州府志』『日次紀事』『芸備国郡志』『遠碧軒随筆』などが知られる。