青の伝説(11) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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高橋貞樹

高橋貞樹「特殊(被差別)部落一千年史」》更正閣

1924(大正13)年、「特殊(被差別)部落」の起源などをわかりやすく説明、忽ち発禁処分。5ヶ月後「特殊(被差別)部落史」と改題、伏字、削除の改訂版が刊行され、8千部を超え当時としてはベストセラーとなった。著者が社会主義運動家だったこともあり、戦前の日本では日の目を見ることが難しかったようである。その文章からは激しい思いが伝わってくる。謂れのない差別を不当なものとして訴えかけている。初期水平社運動の理論家であった高橋貞樹が差別に抗して闘う決意を世に著したのは、僅か19歳の時だった。その文章は、今も輝きを失わない。彼はその後、運動から追放され、結核を患って30歳で獄死した。

その序文の冒頭には・・・今、全国に水平運動は野火のごとく燃え拡がりつつある。この大いなる運動の底を貫いて流れるものは、意味なき伝統的賤視観念に対する憤激の涙である。特殊部落(被差別)民が過去に背負うた生活ほど、惨めな抑圧せられたものはない。本書は特殊部落(被差別)民一千年の歴史を統一的に記述し、水平運動がいかに歴史的必然の行程であったかを示さんとする試みである。そして、「青屋」については、次のように記述されている。

古くから穢多仲間だとされた中に、青屋あるいは藍染屋、紺屋などと呼ばれた染物業者があった。「雍州府志」には、「青屋は、元穢多の種類なり」とある。

※当時「特殊部落」と表現されているが、戦後の部落解放運動の中で「特殊」という表現そのものに差別意識が内包されているとの指摘から「被差別部落」という表現に改められてきた。

※高橋貞樹さんの「青屋」についての記述は、その先達でもある喜田貞吉さんが記した「青屋考」を参考にしたものと考えられる。

《喜田貞吉》

日本歴史学の草創期に、考古学・民俗学・歴史地理などを統合した壮大な国史学を構築した、小松島市立江町出身の国史学者で、その墓は櫛淵の生家の墓地にある。1901年文部省に入り、小学校の日本歴史と日本地理の教科書を編纂した。そのかたわら東京帝国大学、京都帝国大学の講師も務め、1909年には文学博士の学位を受けたが、1910年南北朝正閏(せいじゅん)問題が起こり、その責任者として文部省を退職。また法隆寺再建論を提唱し、1905年から1939年まで関野貞博士らと論争した。その後京都帝国大学の講師となり、のち教授。1922年水平社が結成された頃から被差別部落の歴史を科学的な立場から研究し、我が国における部落史研究の先駆的役割をはたした。特にこの研究は融和運動の実践面にも生かされ、部落開放をめざす運動家たちにも大いに影響を与えた。喜田貞吉が、藍染で有名な徳島出身というのも興味深い。彼は「青屋考」の中で、「和訓栞」の次の部分を引用して論じている。

「藍屋を賤しむは大方等陀羅尼経に“藍染屋往来を得ず”という制あるによれりと言えり、青を染むるには多くの虫を殺すという事、薩婆多論に見えたり。」ただし、喜田は、「大方等陀羅尼経」や「薩婆多論」については未見であり、信用できる文献かどうか疑問であると述べている。