《青》
国道27号を走って京都府舞鶴市にほど近い、福井県の境の地名である。ここは青郷(せいきょう)と呼ばれているが、JR駅は青ノ郷(あおのごう)である。青葉山の周辺にあった集落を、昔の人々は青ノ郷と呼び、その中心が青里(あおのさと)である。近くには青梅神社があり、また、海人大綿津見(おおわたつみ)・椎根津彦命(しいねつひこのみこと)・飯豊皇女(いいとよのみこ)など、第17代履中天皇(400~405年)の皇女が禊(みそぎ)をしたと伝えられる池がある。またかつて、奈良のお水取りの際に、二月堂を建立した人々の名を読み終えたとき、自分の名が読まれなかったという青い衣の姿の人があったと伝えられるが、その人こそ、飯豊青皇女と思われる。書物に出てくるものには、青・阿哀・阿遠・阿尾・阿桑・粟生・阿乎、また手城宮跡出土木簡には青ノ郷青呈・青保と記入されている。また、『和名抄』では、阿桑・阿乎郷となっている。現代では青色と緑色は区別されているが、古代は空も、山も、海も、青と読んだかもしれない。近くには青戸入り江があり、多くの古墳がある。古代では青里も海の入り江で、青というのは聖地を意味していたのではないか。また、古代の色を表す用語は赤黒白青くらいで、明(あか)暗(くろ)顕(しろ)漠(あお)という光に対する感覚が語源であり、特に青は、白に近い色から黒に近い色までの漠然とした色の総称であったという。湿地や水辺、海岸や海辺などを示す。http://www.wakasaji.org/chimei/01_ao.html
《語源由来辞典より》
色とは、光による視神経の刺激が脳の視覚中枢に伝えられて生ずる感覚。色相・明度・彩度の三属性によって表される。特に白や黒を除いていう場合もある。色彩。カラー。男女の情愛に関する物事。色の語源は、血の繋がりがあることを表す「いろ」で、兄を意味する「いろせ」、姉を意味する「いろね」などの「いろ」である。のちに「いろ」は、男女の交遊や女性の美しさを称える言葉となった。さらに、美しいものの一般的名称となり、その美しさが色鮮やかさとなって、色彩そのものを表すようになった。http://gogen-allguide.com/i/iro.html
《吉岡幸雄「色の万華鏡」より》
「あお」という色には、青、蒼、滄、碧などの漢字があてられます。「青」は、旧字体で書くと意味がよくわかります。中国古代(後漢時代)の字書「設文解字」(せつもんかいじ)によれば、「東方の色なり。木、火を生ず。生丹に従ふ。丹青の信、言必ず然り」とあります。旧字体の文字は、「生」と「丹」から成り立っており、「生」は、木を象形し、「丹」は朱系の色を示しています。五行説に従えば、「青」は丹つまり赤につながっていることになります。「滄」は寒い、あるいは涼をあらわすところから、滄海、滄浪のように用いられ、海の色をあらわしています。「碧」は文字通り石で、青く美しい宝玉をあらわします。「みどり」あるいは「あおみどり」とも読まれます。日本の古代に藍の製法と染色法が中国より伝えられる四、五世紀までは、青は、山から出土する青玉と、山藍のような緑濃く染まりつきやすい葉を摺り染めにしていたものを「青衣」と称していたといわれています。そして、藍の色素を含んだ植物の葉で染 める技術は、5世紀の応神天皇から雄略天皇の頃といわれています。聖徳太子が定めた冠位十二階では、青も位置づけられていました。この青も、藍染めの衣装でした。奈良時代に入れば、藍の染色技術は完成され、正倉院の宝物などに見られるように膨大な染織品がつくられました。また、仏教が伝えられるようになると、写経の和紙にも染められ、教典の装飾として利用されました。また、平安時代では、王朝人の間で詩歌が詠まれるようになると、詩歌集の装飾された料紙に藍が染められました。中世の時代になると、藍甕に布を入れて染める紺掻屋(こうかきや)といわれるものがあらわれ、一般の民衆にも浸透しはじめます。それが近世になって「紺屋」(こうや)となります。安土桃山時代には、辻が花という多彩な絞染の小袖や陣羽織が戦国武将の命で染められましたが、その中にも藍染めによる澄んだ青色が見られます。江戸時代になれば、木綿や麻など植物性の繊維にもよく染まる藍染はますます盛んになり、絣、型染、筒描など庶民から将軍大名にいたるまで、藍で染めた青は広く愛されました。
《古代染》
紅花、藍、刈安、茜…四季それぞれに移り変わる自然の美しい姿を眼に捉えて、数えられないほどの色名を造語してきた日本人。これほど、色の名前について豊かな表現ができる民族はいないのではないだろうか。日本は五世紀より高度な絹と染色の技術を会得しようとした動きが見られる。雄略天皇は呉の国に使いを送り、染色の技術の派遣を要請した。呉の国はそれに応え、職人を送ることに決め、その一団が大阪住吉浜へ着いたという記事もある。こうした高度な染色技工師の来日は、日本の染色の本格的な始動となったと考えられる。五世紀から六世紀にかけて日本へ渡来した絹と植物染料による染めの技術は、飛鳥時代、白鳳そして天平時代へと、日本がいわゆるシルクロードの壮大な交流の東の終着駅となって華やかに国際舞台へと登場するに至って、中国の隋あるいは唐の帝国のそれとあまり変わらないものに向上していった。だが、美しい自然の色が、花や葉からそのまま衣裳に染まるかといえば、染色の技術はそれほど簡単なものではない。植物染料という名でも、自然の姿の見た目のまま映るということは少ない。たとえば秋に色づく櫨もその例にもれない。櫨の葉は秋の早い時期に黄から赤へと美しく色づく。ところが染料となる色素は葉ではなくて、幹のなかに含まれている。樹を割ると中心が黄色く見えて、煎じていくと黄色い染料となるのである。天然の植物染料をもちいた伝統染色の仕事は、冬は紅花、春から夏にかけては藍、秋は刈安や茜というように、日本の四季の移り変わりとともに、歳時記のように一年を巡り、伝統行事や日々の生活のなかにも息づいている。こうした色の数々は、今までイメージされてきたいわゆる植物染めの色に比べて、かなり澄んだ鮮麗な色を生み出す。日本人は、侘、寂といった言葉で表現されるような、くすんだ色を好んだのではなく、いつの時代も透き通った色鮮やかなものを欲していたのである。