青の伝説(8) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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青屋門

《大阪城「青屋門」》

中世はこの地には石山本願寺という浄土真宗(一向宗)の寺院があった。その後、織田信長と対立するようになり、天正8年(1580)に滅ぼされてしまい、その3年後信長の後継者となった羽柴筑前守秀吉(豊臣秀吉)が本願寺跡に入城、ここに大阪城(当時は大坂城)を築いた。

大阪城入口のメインは「大手門」。大手門とは「追手門」とも書き城の表門のこと。この門が全開されるのは将軍が城に来る時だけで、歴史上では三代将軍家光と十五代将軍慶喜が来た2回しか全開されたことがなかったらしい。

「桜門」の名前は、豊臣時代にこの付近に見事な桜並木があったことに由来すると言われている。門の両側には竜虎石と呼ばれる巨石があり、雨がしとしとと降る日、桜門の右石にリュウ、左石にトラの姿があらわれたという。また、その桝形には、蛸石、振袖石などの驚くべき巨石が数多くつまれており、大阪城最大の見所の一つである。

「青屋門」は城の東北隅で鬼門にあたり、徳川時代には閉め切ったままだったらしい。桝形は、ここだけが石垣から張り出した形の出桝方(でますがた)で、特異である。枡形とは、敵が侵入しても直進することができないように、石垣を正方形、あるいは長方形に組んだ城門の防衛装置。2箇所出入り口があり、それぞれに門をつけ、石垣の上には多聞櫓などを築く。

大阪駅よりJR環状線の外回りに乗って、大阪城公園駅で下車。目の前の道を第二寝屋川沿いに歩き、大阪城ホールの前を通ると程なく、大阪城の東外濠に出る。大きな堀である。青屋門に通じる橋を渡る。大坂城の非常口とも言うべき門で、徳川時代の元和六年(1620)頃創建され、算盤橋と称する引橋(押出し、引入れ自在の装置)が架かっていた。この門は、昭和二十年(1945)8月に大空襲の被害にあい大破したが、昭和四十五年(1970)に大阪市が残材をもって現状のものに復元した。青屋門の名称の由来は大坂本願寺時代、この門外付近に青屋町があったことによるものと推定されている。青屋とは染物屋のことで、青屋町には染物の同業者たちがすんでいたと思われる。