《青屋(八百屋)》
古くは「八百屋」のことを『青物屋』といいました。野菜は青いので、青物と呼んだからで、おおまかにいって、江戸時代のことです。「須田町・瀬戸物町の青物屋におろし売り」(日本永代蔵・三・一)などとあります。その『青物屋』が中略されて、『青屋』となりました。その『青屋』が、言いやすいように音転して“やおや”となりました。“あをや”が、当初から“あおや”という発音となっていて、それが“やおや”になったのです。あるいは、「青屋」と書いて、“やおや”と読んだ時期もあったのではないかともいわれているようです。そして、その発音が定着すると、「八百会ひ(やほあひ)」とか「八百万(やおやろず)」とかいう、長い歴史を持つ「八百」が、いつのまにか結びつくことになったのだそうです。当時の野菜の種類が多く、店先の状況とまさに一致したところもあったのではないかと考えられているようです。“火事”で有名な“八百屋お七”は、江戸は本郷の「八百屋」の娘ですから、江戸前期には早くも、そういう呼び方が、『青屋』以上に広まっていたようです。
《青屋町(八百屋町)》
若狭の国小浜(福井県小浜市)は、奈良や飛鳥の時代から宮廷の食膳をつかさどる膳臣(かしわでのおみ)の納めた「御食国(みけつくに)」であった。藤原京跡から発見された木簡(現在でいう荷札)には、「若狭国小丹評調塩(わかさのくにおにゅうこおりちょうえん)二斗」、また平城京跡から若狭国遠敷郡多比鮓(わかさのくにおにゅうこおりたいすし)」としるされており、若狭小浜から海産物や塩などが納められていたことがうかがえる。「八百屋町」は、その字が示すとおり昔から野菜や果物を扱う店があったとみえて、古くは「青屋町(あおやちょう)」と呼ばれていたらしい。いつの頃か、「八百屋町」に名前が変わったが、相変わらず「あおやちょう」と呼ばれ続け、次第に訛り、「あわいちょう」になったものと考えられている。
《伊藤若冲》画像
西暦1800年までを生きた若冲は、まるごと十八世紀の人物と呼んでもよい。この画家は何をしたかというと、ニワトリにこだわった。もともとは京都の青物問屋のせがれだった。十八世紀という時代は、一般に博物学の時代と呼ばれるが、科学的な分類に目が向いた時代で、魚や昆虫や鳥を区別して名前をつけるという自然科学の出発点に位置付けられる。西洋の科学的なものの考え方が、行き渡りはじめたころで、自然界のいろんなものに対して目が向いていく。若冲は八百屋だったものだから、身近にある野菜類をしっかり見て、それを写生するというのがまず出発点である。自分の身近にあるものに目が向いて行き、たとえば大根を丁寧に写生する。今までそんなことは誰もやらなかった。狩野派の手本にはそんなものはなかった。なんでも絵になるのだということで、とりあえずは身近にあった八百屋の店頭に並んでいたものを描いていった。そのうちに野菜だけではなくて、同じ志向性をもった目が他のものにも注ぎ込まれていく。江戸時代の中期以降は、様々な新しい品種が紹介されてくる。たとえばサボテンが入ってくれば、これを絵にしていくとか、動植物の観察をベースに絵を描いていった。そこから昆虫や魚介類が出てくる。現代でも鳥を描くために、自宅がまるで動物園のようになっているというような京都の日本画家がいるが、これも若冲からの流れに属する。とにかく自然を観察することが重要だということになってきて、その中でことに面白がったのが、この人の場合ニワトリだった。ニワトリを忠実に写生していく。(注:「若沖」は間違いで「若冲」が正しい)