青の伝説(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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お七

わからないことは、まず辞書で調べる。

 《青屋》 

藍染を生業とする者。紺屋、紺掻ともいう。京都では早くからエタ仲間とされ、エタの頭や村年寄の指図を受けて、二条城掃除役や牢屋敷外番役をつとめた。彼らが賤視されたのは、紅染と違い藍染は、虫を殺して原料とするので、往生できぬと説く仏典のためともいわれるが、やはり中世以来の染色業と鴨の河原の密接な関係を無視できない。彼らに課せられた青屋役は早くに金納となり、実際の労役に従うことはなかったが、市中に散在する藍染業者すべてに由緒を問わず賦課しようとするエタ村年寄との間に争いが起こった。この争いは青屋に有利に働いたようで、たとえば享保8年(1723年)には町奉行が青屋賤視にさして根拠のないことを認め、ただ青屋は筋目エタだから公役を課するのだとしている。こうして、近世後半には、京都の青屋は賤民の身分を離れることに成功した。なお刑具の製作や牢屋の普請に従う牢大工は、なぜか青屋大工と呼ばれた。いわゆる青屋筋として青屋役を課せられたのかもしれない。京都を中心とする畿内の一部以外の地区では、必ずしも青屋は賤視されていなかった。たとえば甲斐国では、青屋は卑職でないとされているし、藍作が藩によって奨励された阿波国でも、紺屋は全く賤しまれていないのである。(解放出版社「部落問題辞典」より)

《京都において》

青屋は、布を藍染などいろいろな色や文様に染めあげる染め物屋のことです。なぜ、差別されたのかわかりません。だから、京都奉行から牢番・処刑役を強制された青屋たちは、「私たちは、藍で布を染めるのが仕事であって、牢番・処刑役をやらされる筋合いはありません。」「藍染は、おえらい天皇にも昔から納めているりっぱな物です。」というようにどうどうと抗議しました。もっともな意見ですから、奉行も反論できず、「前から、青屋は差別されていると聞いている。だから『エタ』身分と同じだ。」と無理に押さえつけようとしました。それならと、青屋の中には「京都でそんな差別をするのなら、私は江戸出身だから差別するな。」ということで江戸屋という店名に変えた者もいたそうです。また、ふつうは紺屋も同じ意味ですが、京都・大阪あたりの職人の間では、藍の丸染めだけをするのを青屋、いろいろな色や文様を染めれば紺屋と区別するようになりました。そして、牢番・処刑役を押しつけられる青屋の名をきらって、染め物屋は、つぎつぎと紺屋・染め物屋・友禅屋などと名乗って、組合をつくって団結して町人身分として地位を高めていきました。大阪では、1626年、青屋が牢番・処刑役を拒否する訴えをして勝利しました。阿波藩(徳島)では戦国時代に三好氏が支配した時は、青屋を差別する動きがありましたが、蜂須賀氏が支配してからは江戸時代もずっと、青屋は阿波藩で一番大切な職人として保護されました。藍が米とならんで、藩の最大の収入だったからです。藍の売買も、藩の専売ということで、武士が行いました。(明石書店「江戸時代の被差別民衆」著:久保井規夫より

《八百屋お七》画像:一勇斎歌川国芳画「お七大森刑場」

天和2年(1682)の12月28日、江戸に大火があった。お七の一家も焼け出され、一家で近所のお寺に避難した。その時お七は一人の若い僧に一目惚れしてしまう。年明けて家が再建され自宅に戻ったお七だが、その僧のことが忘れられない。やがて思いがつのり、もう一度火事が起きたら彼に会える、という思いから自宅に火をつけてしまう。しかし燃え始めた途端、お七は自分がしたことが恐くなり、すぐに近くの火見櫓にのぼって半鐘を叩いた。おかげで人々が駆けつけてきてすぐに火を消し、大したこともなく終わった。しかし、お七は火付けの大罪を犯したとして、奉行所の取り調べを受けた。取り調べをした奉行はお七が非常に若く、幼い恋心がしでかしてしまったことにいたく同情した。しかもお七は16歳。本来ならば放火犯は火あぶりの刑と決まっているが、15歳以下の年少者は罪一等を減じるという規定を使いたいと思った。(つまり江戸時代にも少年法はあった。)しかしお七はそれに対して、自分は確かに16歳であると主張。何なら生まれた時のお宮参りの記録を見てくれとまで言い、やむを得ず奉行は、規定通りお七に死刑とした。火刑はこの年、天和3年(1683)の3月29日に鈴ヶ森刑場にて行われた。