さて番組の最大の見所は「もう一枚のモナリザ」・・・
ダ・ヴィンチ作のモナ・リザはもう1枚存在し、それが「ジョコンダ婦人の肖像画」だという説だ。この説が本当だとすれば、ラファエロが模写した絵の謎も解け、ヴァザーリの記述の正しさも証明される。我々は様々な手段を使い世界中で、「もう1枚のモナ・リザ」を探した。そして“アイルワース版モナ・リザ”と呼ばれるモナ・リザの存在を知る。アイルワースとは、英国の地名であり、そこで発見されたモナ・リザという意味だ。しかしその行方は公にはされていなかった。そんなある日、突然我々のもとに舞い込んできた「アイルワース版モナ・リザ」の情報。その人物は、所在と所有者を絶対に明かさないことを条件に、今回、その撮影を特別に許可した。スイスの地下に眠る、「アイルワース版モナ・リザ」。ここから先はぜひ自分の目で確かめて欲しい。それが本当に「アイルワース版モナ・リザ」なのか。そしてそれが「ジョコンダ婦人の肖像画」なのか。
《アイルワース版モナ・リザ》
ロンドンのアイルワースに住む美術専門家によって発見され、スイスの銀行の地価金庫に眠っている。18世紀イギリスの画家レイノルズがダ・ヴィンチの母国イタリアで購入。1962年ロンドンのピューリッツアー氏に渡る。アイルワースモナリザを手に入れるため、私財を投げ出したという。
《複数のモナリザ》
モナ・リザが複数枚存在する、という説は昔から語られていた。なぜなら、多くの画家たちがそのように複数枚の絵を残しており、またダ・ヴィンチ自身も「岩窟の聖母」のように、構図は同じだが細部が異なる絵を残していたためである。フランス人にモナ・リザを見せ、「この絵の人物は誰か?」と質問すると、「モナ・リザ」ではなく「ジョコンダ夫人」という答えが返ってくる。ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」はジョコンダ夫人の肖像画である、というのは一般的な考えなのだ。
《美術評論家・ヴァザーリ》
「モナリザ」のモデルは誰?という謎については様々な説があります。一般的に言われているのは、16世紀のジョルジオ・ヴァザーリの著書『美術家列伝』に記述されているフィレンツェの大富豪フランチェスコ・デ・バルトロメオ・ディ・ザノービ・デル・ジョコンドの妻だという説です。ヨーロッパで「モナリザ」が「ラ・ジョコンダ」と呼ばれているのはこのためです。しかし、ダ・ヴィンチが「モナリザ」の創作に着手したのは1503年頃で、 彼女は1479年に貴族の家に生まれたとの記録が残っているので、ダ・ヴィンチが「モナリザ」を描き始めた当時の彼女は24歳だったということになります。作品から受け取れる年齢に比べると少し若すぎる感がします。そのため、モデルについての異説も多く、今も真相は謎に包まれています。
彼の記述には「ジョコンダ婦人は若く、唇が赤く、眉は濃く薄くのびている」とある。モナ・リザはその特徴を満たしていない。さらに、ラファエロが模写したモナ・リザには、現在のモナ・リザには存在しない柱が両脇にあり、人物そのものも、より若い。一体ラファエロはどの絵を模写したのか・・・?
《モナリザの模写》
早い時期のモナリザの模写には、眉毛の描かれてあるものも無いものもあり、本来の姿は不明ですが、プラドに残る背景の無いモナリザの模写には眉毛が描かれています。。元々のモナリザにはその両端に円柱があったのが、60枚に達する後世の模写の何点かと、実際に描き残された台座によって明らかにされており、その中にラファエロの素描も含まれています。
《モナリザのモデル》
モナリザのモデルについてはいろいろ憶測されてきた。一応ジョコンダ婦人に落ち着いてはいるが、イザベラ・デステだろうとか、モデルはいないとか、あるいはダ・ビィンチ自身ではないかとも言われてきた。1986年アメリカのリリアン・シュワルツがダ・ビィンチの「自画像」と「モナリザ」をコンピュ-タ処理して重ね合わせてみたところ、これがピッタリと合い、モナリザ自画像説の有力な傍証のひとつとなった。レオナルド自身、「画家の描く人物は画家の分身である」とも言っているし、確かに画家の描き癖というものは否定出来ないことで、これも自画像説の絶対的な証拠とはならないであろうが、しかし面白い事実ではある。フロイトがダ・ビィンチの特異な幼児体験を通して「彼の母が自分の失ってしまった、あの神秘的な微笑の持ち主だったので、彼がそれをフィレンツェの貴婦人にふたたび見出した..」(フロイト「造形美術と文学」河出書房新書)