まずはレオナルドの生まれについて・・・
《Vinci(ヴィンチ)村》
1452年4月15日22時30分(祖父アントニオの記述より)、イタリアの町フィレンツェから西へ40キロほどはなれたところにあるヴィンチ村に、ひとりの男の子が生まれました。その子の名はレオナルド。父セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ (Ser Piero da Vinci) は公証人で裕福な家でした。母カテリーナ (Caterina)は農民あるいは中東生まれで奴隷としてピエロの元に連れてこられたのではないかとも考えられています。しかし子供は生まれたものの二人は結婚していません。レオナルドの「洗礼の記録」にはこの母の名は記録されていません(カテリーナは持参金がない為に結婚を許されなかった?)。父の家に引き取れたレオナルドは母の無い子として育ちました。父は後にアルビエーラ、フランチャスカという若い女性(いずれも結婚時の年齢は16歳)と相次いで結婚します。レオナルドは祖父の家に預けられ、可愛がられますが、2人目のフランチャスカと再婚した時、レオナルドは13歳、3歳年上の女性を母と呼ばねばならない環境がその後の彼の人生に何らかの影響を与えたことは否定出来ません。16歳の時、同居していた祖父が亡くなり、翌年、一家はトスカーナ地方の中心地、花の都フィレンツェに移り住みます。この時、父の妻はすでに2人目に代わっています。当時のヨーロッパは現在の名付け方と異なり、彼のフルネームはLeonardo di Ser Piero da Vinci(ヴィンチ村出身でピエロの息子のレオナルド)です。おそらく、彼は庶子(私生児)だったので父の名前を使わなかったのだろうと考えられています。レオナルドは彼の作品に「Leonardos」または「Io, Leonardo」とサインしています。
フィレンツェから車で約1時間の距離にあるのどかなヴィンチ村の北部約2キロの丘陵地突端に建っている質素な生家は、当時(15世紀)そのままの姿で残っています。母屋と納屋、建物は2つL字型に配されています。母屋は150平米程度の平屋、大きな暖炉のある部屋を中心に左右に2間、壁も床も天井も装飾なしの石造り。壁は厚味が40センチほどもあり、床は石畳のように凸凹しています。母屋と納屋はブリッジでつながっており、そこに大きな石釜が残っています。この釜でレオナルドも食したであろうパンが焼かれたのでしょう。生家は、トスカーナの風景を独り占めしているような場所です。13世紀の「グイディ城」をそのまま用いたダ・ヴィンチ博物館もあり、1階は、巨匠の発明品、設計図を基に復元したさまざまな機械の小型模型図の展示室。2階には、人力飛行機、自転車などの大型模型が展示されています。彼の父親とされる生家もあります。現在は、かなり大きなレストランとなっています。http://www.leonet.it/comuni/vincimus/