《メジチ家とレオナルドそして謎の微笑》
ルーブル美術館にある「モナリザ」は、ダ・ビンチが描いた2枚目の「モナリザ」であるという説があります。ジュリアーノ・デ・メジチに愛人の肖像画を依頼されたレオナルドがそのモデルに会ったところ、それがなんと以前描いた「モナリザ」のモデルだったので、以前取らせたポーズとまったく同じポーズで肖像画を描いたためにモナリザが謎の微笑みを浮かべているという説です。
《メジチ家》
中世からルネサンス期のヨーロッパを代表する名家といえば、イタリアの古都フィレンツェを支配したメジチ家を抜きには語れない。そのメジチ家を代表する人物の一人が、豪華王あるいは大ロレンツォとも称されたロレンツォ・デ・メジチ。ロレンツォは西暦1449年生まれ。国父コジモ・デ・メジチ(ロレンツォの祖父)、痛風病みのピエロ(ロレンツォの父)と受け継がれてきた。ロレンツォは古都フィレンツェを統治した。1469年、20歳で父のピエロの地位を継承し、弟ジュリアーノと共にフィレンツェを統治していたロレンツォ・デ・メジチ(1492年没)。フィレンツェの旧家をはじめとする反メディチ勢力は、メディチ家の支配を覆そうとしていたんだ。1478年4月26日の日曜日、事件は起こった。その舞台はフィレンツェの中心にある花の聖母マリア大聖堂の中。法王シスト4世の親戚にあたるサンソーニ枢機卿を迎えて行われたミサの最中だった。フランチェスコ・デ・パッツィがロレンツォの弟のジュリアーノ・デ・メジチに襲いかかり、背中から短剣で刺しかかった。更にパッツィの徒党もジュリアーノに切りつけた。いくつもの傷を受けたジュリアーノは絶命。他方で同じく陰謀に加担していた二人の僧が、ロレンツォに襲いかかった。しかし、傷を受けながらも暗殺者の短剣をかわした豪華王ロレンツォは大聖堂の奥に逃げ込み、魔手を逃れることができたんだ。その頃、ドゥオモを出たサルヴィアティ大司教はフィレンツェの政治の中心シニョーリア広場にあるベッキオ宮殿に向かい、フィレンツェの政権を掌握しようとしたが失敗。騎士ヤコポ・デ・パッツィはフィレンツェ市民を味方につけようとしたが、メジチ家を支持する多くの人々に圧倒されてしまった。結局、豪華王ロレンツォの弟ジュリアーノは暗殺されたものの、パッツィ家の陰謀は失敗に終わり、フランチェスコ・デ・パッツィ、ヤコポ・デ・パッツィ、サルヴィアティ大司教らの陰謀加担者たちは処刑され、パッツィ家・サルヴィアティ家の人々は市民権を剥奪された。