《藍の色素に極めてよく似た貝紫色素》日本では染料として脚光を浴びはじめて日の浅いアカニシ(和名=赤螺)は、古代の弥生人も有明海のアカニシで染めていたという吉野ヶ里遺跡(佐賀県)の発掘品からの発見に、古代人の智恵の深さを知らされたが、明治10年(1877)、アメリカの動物学者E・S・モースが開通して間もない鉄道工事で露出した大森貝塚(東京都品川区)を発見、その調査報告書のなかでアクキガイ科のチリメンボラ(紫色素を含有する貝)などの貝殻の一部分が砕かれていることから、染色に用いられた可能性を指摘している。大森貝塚は縄文時代後・晩期の貝塚とされ、ことによれば縄文人も貝紫に着目していたのかと思わせる。戦後、日本で貝紫を染料として利用する染色について論考が相次いで発表された。貝紫染料を採集するに最も適しているアカニシの紫色素は、古代フェニキア紫の主成分6・6ジブロムインジゴと同じ化学構造を持つとされ、アカニシの紫色素による染色は、還元法による染色が染織作品の制作に適っていることが明らかになった。メキシコ・オハカ州の太平洋沿岸で行っている貝のパープル腺から指圧で色素を絞り出し、糸に擦りつけて染め、日光照射で発色させる直接法は、斑(むら)染めとなるため、日本の染織品には藍染めと同様の還元法による浸染(しんせん)が望しいとされている。貝紫の色素と藍の色素とは、云わば親戚同様な近い関係にあり、木村光雄氏は「貝紫の化学」(『月刊染織α』昭和五八年11月号)で「貝紫の化学構造から二つのBr(臭素ジブロム)を除くとインジゴで、つまりすくもなどの天然藍に含まれている色素成分と貝紫の色素成分とは極めてよく似た化学構造を持っている。」と指摘、貝紫染めは藍染めの場合と同様な建て染め法によることができると述べている。また、昭和36年から天然染料の研究をすすめていた吉岡常雄氏は「天然色素の中で還元染料に属するのは藍と貝紫の2種に限られる。」と『染色工芸』15号(昭和42年2月)に記述している。佐々木幸彌氏は「古代紫(貝紫)の化学的組成について」(『染料と薬品』昭和50年2月号・化成品工業会)ほか本誌上でも還元法の建て方(表1)を記しているが、古代地中海沿岸の貝紫においては、当時藍建てに使っていたとみられる蜂蜜と醗酵人尿を助剤に、建て染めを行っていたのではないかと推察している。さて、こうした化学構造が明らかになると、その染色の堅牢性に注目が移る。この点について佐々木氏は抜群に優れていることを実証している。自らの試験では、日光照射による発色後にソーピングを行なった絹布の試験結果(JIS法)によると、洗濯による変退色及び汚染(L-0844)は5級、カーボンアーク燈光試験(L-0842)は8級以上の堅牢度と公表している。やはり貝紫の色素は高貴な色を裏付けるように、彩りもその堅牢度もそれにふさわしいものであった。
《染織作家が試みた貝紫染めの染法》
では現在の日本の貝紫染めは貝紫染め職人の稲岡良彦さんや、染織作家はどのような染法で作品の制作に取り組んだのだろうか。まず昭和55年、国内で初めて貝紫染め絣を織り上げた沖縄県石垣島のからん工房・深石隆司氏の場合は「サンゴ礁のリーフに棲息する貝の殻を砕き、パープル腺からピンセットで色素分を取り出し器に集める。極く少量のアルコールを加えて蛋白質の粘りをとり、少量の水で溶きほぐして目の細かな網でこして色素分を採る。この原液は薄黄緑で、これに水を足して濃度を加減し染液をつくる。糸は常温の染液に浸してしぼり、陽光のもとで満遍なくさばいて発色定着させる。陽光(紫外線)に反応した色素は黄緑から青味を帯ぴ、しばらくして美しい紫色に変化する。充分発色した糸はよく水洗して不純物を落とし、更に直射日光に当てて仕上げる。」としている。宮崎県.綾の手紬工房の秋山真和氏は還元建て染法をとった。「貝の肉質部パープル腺を取り出すと、タンパク質を酵素で分解して色素のみを分離、これを乾燥させると粒子状の貝紫染料になる。藍の建て染め還元溶解剤には一般にハイドロサルフアイトとアルカリを助剤に使用するが、ここではアルカリ剤に樫の灰汁(あく)を使った。樫灰の一番灰汁に貝紫染料とハイドロサルファイトを加え、掻き混ぜて染料を溶かし、染色の原液をつくる。湯をはった染色槽に原液を注ぎ染液とする。後は建染染料の染色法とほぼ同様」としている。藍建てを貝紫染めに応用しているのが還元法で、糸を染色後に空気酸化すると赤紫に発色する。天日乾燥させて中性洗剤で煮沸ソーピングするとさらに紫色は鮮明になると云われる。還元建ての利点は、色調をコントロールできることや、その染液を糸染めにとどまらず型染め・手描き染めの色挿しにも使用できる。染色作家の堀江勤之助氏は、小規模な器材で還元建て染液を作り、模様を描いた。また友禅作家の山岡古都氏はサンゴの版染めに貝紫を使った。
《紫工房の貝紫染め還元建て染法》
再び紫工房・稲岡さんの貝紫染めに話を戻そう。貝紫染めの原料となるアカニシの安定供給が約束されたことで、染色法も実験を重ねた緒果、藍染めの還元建てに似た手法をとった。しかし、染め職人は染織家から預る絹糸で斑なく所定の色に染め上げる使命がある。失敗があってはならない。専業者の先例を学んで技術を修得することのできない貝紫染め。すべてが自身の手で編み出す染法に依るだけに、仕事に非常な精度が求められる。これなら貝紫染めは大丈夫と、ひそかな自信が湧いてきた頃、インターネツトに貝紫工房のホームページを開設した。平成12年秋のことである。多くの人たちに解り易く「貝紫染めして気の付いたこと・還元染法について」などカラーの工程写真の画像を挿入して解説した。その一部を要約してみよう。「イボニシ、レイシ、アカニシの巻貝による貝紫染めを行ったが、イボニシよりレイシ、レイシよりアカニシと段々赤味が強い紫になった。還元には苛性ソーダあるいは、ソーダ灰、ハイドロサルファイトを使うため、染色終了後、60度の温湯に酢酸を入れソーピングを行った。貝紫のパープル腺(染料になる部分)の染料の構造には、インジゴブルー、インジゴブラウン、インジゴルビン等、多種の染料が混ざっていると思われるが、ソーピングを行うとインジゴブルー、インジゴブラウンが脱落して赤味を帯びた貝紫になり、堅牢度も上がる。還元染法の手順は、金槌で貝殻を割り、周囲の肉質部と一緒に鯉下腺(パープル腺)を取り出す。これを器に集めて擂りつぶし、直ちに直射日光の下で濃紫色になるまで酸化発色させる。完全に濃紫色になったものを原染料とする。染色は、原染料を温アルカリで溶解した液にハイドロサルファイトなどの還元剤を混入することにより、薄緑色のロイコ液(水溶性になった貝紫色素の染液)が得られる。その溶液に絹糸を繰り入れ、一定時間浸染することで濃黄に染まる。この絹糸を溶液から引き上げ、固く絞って空気中にさらすと、赤紫色に発色する。染ムラも少なく、色素(染料)をストックできる利点がある。貝紫染めは根気と臭気との闘いだが、染め上がった美しさはすべての苦労を払拭させる。」と言葉を結んでいる。貝紫染めは日光(紫外線)と空気(酸素)の助けを借りて染色が行われる。
《貝紫の染色は一発で決める》
拳形の巻貝アカニシの殻は厚くて堅い。漁港から宅急便で屈いた生貝は、即座に必要な量を残し、余りは大型冷蔵庫で冷凍して保管する。染めの注文に見合う貝紫染料をつくるには、貝殻数百個を一ヶずつ金槌で割ってパープル腺を取り出す作業が数日続く。稲岡さんの作業を見かねた中学生の子息が手伝いはじめると「勘がよいのか私より上手にパープル腺のある辺りを、割ってくれる。」と稲岡さんは相好を崩す。パープル腺を乳鉢に集めて丹念に擂りつぶした後にアルカリと水を加え、煮沸して溶解させ、液を濾し器で精製し色素のみを分離する。これを日光の下で乾燥すると穎粒状の濃縮した染料となる。還元建ては、40度位の温湯にアルカリ剤を混ぜて穎粒状の染料を溶かすと、やがて藍の華に似た貝紫の華が咲き、勢いよく建ったことを知らせてくれる。これを原染液にして濃度加滅は絹糸を試し染めながら染液を調整して、糸染めにとりかかる。「薄紫は一発勝負で染めますが、濃色は斑なく重ね染めするのに苦心します。」と稲岡さんは染色の現場では、一寸の怠惰も許されないと自らを戒める。20坪余の工房には赤紫、ピンク、青の彩りの貝紫絹糸が竿にかけて空気にさらされている。染織家から受注して約2週間の期限で納めるまで、気の抜けない貝紫染めである。パープル腺は虹色のように変化するとも云われる。貝殻から取り出した当初は黄白色・淡黄色を呈しているが、その色素は太陽の光りや空気によって黄緑→緑→青→赤紫へと変化して、美しい紫色に発色する。ここで稲岡さんが考案したもう一つの染料づくりを紹介して、貝紫染めの稿を結ぶことにしよう。天候に左右されながらの染色だが、還元建てをした状態の染液に酸を混ぜると色素が沈澱する。上水を取って真水を足して沈澱させることを繰り返す。これは色素に含む塩分を取り除くためで、塩分が残留していると粘り気を生じる。さらに沈澱した色素を煮詰めて天日乾燥すると、さらさらした穎粒状の貝紫染料が誕生する。これを冷凍保管で染織家からの受注に備えることになるが、天然染料は草木染めでもそうであるように、染めの処方箋通りにはいかないのが常である。そこに染め人の経験と感性と誠実から得た勘が加味されてくる。動物染料による貝紫染めを自らの手でマスターした日本で唯一の専門職人・稲岡良彦さんは、いまいっそうの磨きをかけている。各地の染織作家の依頼をこなし、古代の幻の貝紫を現代の染織に甦らせる大望を抱きながら、染めの仕事に打ち込んでいる。http://www2.ocn.ne.jp/~purple7/sen7txt.htm