《竜文切手》
明治4年3月1日(新暦4月20日)の新式郵便の開始と共に日本で最初の郵便切手が発行されました。この切手の図案は当時の紙幣等と同じく「竜」であり、額面が江戸時代からの貨幣単位である「文」であるため竜文切手と呼ばれています。しかし、郵便事業を創始するに当たって最初に考えられた切手の案は、このデザインとは異なっていました。明治3年6月に提出された「郵便創業の建議書」の中に載せられていますが、金額の周囲を花で囲ったものであり、偽造されやすい等の理由から採用されず、幻の図案として終わってしまいました。竜文切手の製造は、大蔵省印刷局の前身である紙幣寮が設立されていなかったため、太政官札など紙幣製造を明治2年から請け負っていた京都の銅版師松田敦朝(玄々堂)に委託されました。印刷方法は銅凹版(エッチング)で、当時はまだ原版を複製する技術がなく1シートの原版は一枚一枚を手彫りにしたので、同じ額面の中でも、細かく観察すると、切手ごとに微妙な差異がみられます。種類は四十八文、百文、二百文、五百文の4種類があり、1シート40枚で構成されています。当初、郵便料金は宛地制であり、最低料金が百文で大阪までが一貫五百文でした。四十八文は重量超過の割増料金用に使われました。四十八文は半端な金額のようですが、当時、一般的に九十六文で百文となる九六勘定(2、3、4のいずれでも割り切れるという計算上の都合からできたものといわれています)が使われており、この九六勘定から考えると百文の半分ということになります。
貨幣の裏表については、なかなか分かりにくいところがありますが、明治4年「新貨条例」を公布した際、「新貨幣品位量目表」により、天皇の肖像に代わるものとして入れた「龍紋」のある方が表と定められました。しかし、明治6年8月の太政官布告で二銭銅貨が新たに制定された時、銅貨については他のものもあわせて「龍紋」の側が裏とされました(これについては、改正条文の挿図の裏表を誤って掲載したという説もあります)。さらに一円銀貨(貿易銀)についても、明治7年3月の太政官布告により「龍紋」の側が裏とされ、貨種によって裏表の統一性がとれなくなりました。そこで明治8年6月、「新貨条例」を「貨幣条例」に改称した際に、改めて「龍紋」の側を表と定めました。明治30年の「貨幣法」に基づいて制定された「貨幣形式令」では、裏表については明文化されませんでしたが、「龍紋」が廃止されたことから、菊の紋章の側を表と呼称するようになり、この基準が長く用いられてきました。第二次世界大戦後、貨幣の図柄に菊の紋章が使われなくなりますと、明文化されていないことから裏表が特定できなくなりました。現在、造幣局では、作業上の必要性等から年号のある側を裏としています。(造幣局HPより)