螺旋物語(41) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《辰と龍》
「辰」字源:象形=蜃などの二枚貝の類が殻から足を出して動いている形。こきざみにうごく。辰は「震」や「振」のようにフルエルの意味を持つ。「娠」胎児の振動を意味すると考えられる。
十二支には子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥に分けられ、多くの人は動物と思っている人もいるようだが、元来は動物とは全く関係ない。十二支に動物を配したのは、大昔に字の読めない人のために考え出された読み方で、もともとは一年中二ヶ月をあらわす生活記号だったのである。これを中国流に音よみにすれば、子(し)丑(ちゅう)寅(いん)卯(ぼう)辰(しん)巳(し)午(ご)未(び)申(しん)酉(ゆう)戌(じゅつ)亥(がい)となるが、これを覚えるのは容易でなかったため、鼠、牛、虎、兎、竜、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪の十二の動物に当てはめた。しかしこの中で、竜というのは空想上の動物で実在しないが、当時の中国人はどこかに実在していると考えていたのである。十二支とは非常に便利なもので、十干と組み合わせて年、月、日、時に使用され、昔の暦の中核をなしていた。また、方向にも使われていたので、これを列記すると次のようになる。
子(ね)=一月、北の方角
丑(うし)=二月
寅(とら)=三月
卯(う)=四月、東の方角
辰(たつ)=五月
巳(み)=六月
午(うま)=七月、南の方角
未(ひつじ)=八月
申(さる)=九月
酉(とり)=十月、西の方角
戌(いぬ)=十一月
亥(い)=十二月

《とうりゅうもん(登竜門)》
意味:成功、立身出世をするために通りすぎなくてはならない困難な関門や試験のこと。語源:「竜門」とは中国の黄河中流にある急流で有名なところ。そこにたくさんの鯉が集まっても、この急流では大きな魚でも昇ることはできない。もしも、昇れる鯉がいれば、それは竜になるであろうと言い伝えられたことから、困難に対する関門を言うようになった。(中国の後漢書より)
《端午の節句》
龍は最強の超能力を秘め、鱗族(鱗のある魚・蛇など)の長であり、巨大になれば地球をつかみ、小さくなれば蚕の如くなり春分にして天に昇り秋分にして淵に潜みます。龍の角は鹿に似て頭は駝(らくだ)に、眼は鬼に、うなじは蛇に、腹は蜃(みづち)に、鱗は鯉に、爪は鷹に、掌は虎に、耳は牛に似たりと、このことを龍の九似といわれています。また、龍の喉元に一尺四方の逆さ鱗があり、もし知らずにこの鱗に触れるものがあると最後、龍は凄まじい勢いで怒ります。中国では天子の怒りに触れることを「逆鱗に触れる」といっています。龍の性質は極めて粗猛な面と、さりとてまたかわいらしく子供らしい反面があると伝わっています。古典用語の説明によりますと龍は「青天」と「玉」を愛し、「燕の肉」を食し、嫌いなものは「鉄矢」「むかで」「ささの葉」と「五色の糸」であります。龍の習性について中国ではこのような伝説があります。
日本では端午の節句には「粽(ちまき)」をささの葉に包み五色の糸で結んで作ります。鯉のぼりは鉄矢でできた風車そして五色の吹流しを取り付けて鯉をのぼらせますが、これは全て粽を龍に食べられない様、また鯉が龍に襲われないようにして子供達の無事成長を願ったものです。
鯉のぼりの由来について、一般的によく知られているのは、中国の伝説です。鯉が竜門という急流の滝を登ると竜になって天へ登るという出世にちなんで、男児の立身出世を願う親心が鯉のぼりという形になったという教訓的な説です。この鯉のぼりは中国の故事にならって日本でつくられたもので、中国にあったのではありません。人形の研究家で有名な山田徳兵衛氏はもう一つの説として、鯉は姿も生態も威勢がよく、男性的な魚だからという形態説をあげています。なるほど鯉は江戸時代の祝いごとの図柄などにもよく見られたし、旗のぼりのすそ模様などにもよく使われています。しかしいきなり、あの大きな鯉のぼりを空になびかせたのではなく、最初は旗のぼりの上の端に付属品としてちょいとつけたものが、後に独立したのではないかといわれています。旗幟のはしに小さな鯉がくくりつけられたさし絵の登場が1744年、大きな鯉のぼりが見られるのは1800年、江戸も中期以降のことです。男の子が生まれたとき、鯉のぼりなど立てるのは、わが家に男児が誕生したのを天の神に告げ、その守護を願うための目印にしたといわれています。
《家紋》
引両紋:清和源氏足利氏・新田氏、桓武平氏の三浦氏などが使用した武家らしい家紋である。横に、あるいは竪に一本、二本あるいは三本などと線を引いた紋がある。これらの紋を総称して引き両紋と呼ばれる。非常にシンプルでかつ斬新な武家ならではの家紋であろう。引き両紋は、龍を象ったものといわれている。すなわち一龍が「一つ引き両」であり、二龍が「二つ引き両」というのである。龍は古来、中国では天子の象徴として、我が国では雨の神として尊敬されてきた。家紋となったのもその霊力にあやかろうとしたことは言うまでもない。鎌倉時代初期、源氏の一門である足利氏、新田氏は、将軍家の白幕に遠慮して、二本の線、あるいは一本の線をその陣幕に引いた。そして、それが足利氏の「二つ引き両」となり、あるいは新田氏の「一つ引き両」の紋となった。こちらの方が説としてはうなづけるものがある。こうして、引き両紋は源氏の足利氏・新田氏を代表する家紋となった。足利氏からは、細川・畠山・吉良・今川・仁木・上野などの一門が分かれ、足利尊氏の幕府樹立を援けたことは歴史が示すところである。そして、かれら足利一門諸家は、二つ引き両を家紋とした。一方、新田氏の場合、里見・山名・田中・大井田などの諸氏が分かれ、それぞれ引き両紋を使用した。しかし、新田義貞が足利尊氏に敗れてのち、足利氏に従属したものが多く、二つ引き両を使用するようになった家が多い。また、尊氏には属さず、野に隠れ一つ引き両から他の紋に替えたものも少なくない。敗者の悲哀は、家紋からも見てとれるのである。また、三つ引き両と呼ばれる紋がある。こちらは桓武平氏流三浦氏の家紋として知られている。三浦氏は源頼朝の創業を援け、鎌倉幕府初期の重鎮であった。この三浦氏の幕は、黄紫紅(きむらご)の三色に染め分けられたもので、それがのちに三つ引き両の紋に転じた。嫡流は執権北条氏に敗れて滅亡したが、一族は各地に分散し三つ引き両の紋を広めていった。葦名・佐久間・朝比奈などの諸氏が有名である。ちなみに三浦氏の名跡は庶流佐原氏の流れが継いで戦国時代に至った。ところが後期三浦氏も、北条氏に滅ぼされるのである。すなわち、戦国初期相模国に勢力を振るった三浦道寸父子は北条早雲に対抗したが、結局は敗れてしまった。北条氏の家紋は、大蛇の遺した三つ鱗で、龍は大蛇に叶わなかったというところだろうか。奥州の戦国大名の雄として有名な、伊達政宗は、「竹に雀」紋が有名だが、本来の紋は「竪三つ引両」で、源頼朝から賜わったと伝えている。古い時代の伊達氏の画像などを見ると「竪三つ引両」が据えられている。室町時代、足利将軍家は功のあった武将たちに二つ引両紋を下賜したことから、自分の家の紋と引両紋を組み合わせた家紋が「見聞諸家紋」に多く掲載されている。三河伴氏流富永氏の「木瓜に二つ引両」、赤松氏の「巴に二つ引両」、遠山氏の「九字に二つ引両」、波多野氏の「竪二つ引両に鳳凰」、中沢氏の「三つ酢漿草に二つ引両」などなどが挙げられる。これらの家が後世になって、たとえば中沢氏・遠山氏が「二つ引両」を紋としたように、将軍家から賜った「二つ引両」の紋を家の誇りとして本来の紋と替えて用いた例もあったことと想像される。引き両紋は、単純な意匠ゆえに好まれないことが多いという。しかし、その由来・歴史は誇りに満ちたものであり、天下をとった家紋でもあるのだ。