《地名》柳田国男氏は著書「地名の研究」の中で「申すまでもなく地名は人のつけたものである。日本の地名は日本人のつけたものである。前住民がつけたとしても少なくもわれわれの採用したものである。新たにつけるのも旧称を採用するのも、ともに人の行為である。すでに人間の行為であるとすれば、その趣旨目的のないはずはない。」と述べられています。その上、日本の地名はあて字による変化が多いことで難解だとも言われています。そのために文字にあまりとらわれず、言葉の発音に注意することが重要とも言われています。青森県の青森、東京の青山などの青は、日の出の方向(東)とか、青葉・若葉など芽生えの春を意味していると言われています。伊豆半島の天城湯ヶ島町には、青羽根があります。《青羽根》静岡県伊豆市に所在し、東名高速から南・西伊豆へ向かう幹線道路(伊豆の踊り子も通った街道)沿いにあり、地名の由来は、「青埴(あおはに)」がなまったもので、凝灰岩などが風化して青色粘土、青色の土地が多かったことによるとされています。《青木》「御神体、青亀に乗りて漂着するなり、よってこの地を青亀(あふぎ)というなり」その昔、保久良神社の御神体(神武東征のおり青亀に乗って現れた水先案内の神「珍彦(うずひこ)」後に椎根津彦)が役目を終え漂着したのが今の青木の浜で、その地を青亀(あふぎ)から青木(おおぎ)と変化したと云われています。青を「おお」とは神官が神さまを呼ぶときに叫ぶ言葉で、青木の木は神様の樹(よりしろ)と言う意味で、「神様が集まり着く所」=「人々が集まる地」という意味があるそうで。全国でもこのような地名をさがしている研究者もいます。神様が漂着した所は「白砂青松(はくしゃせいしょう)」と呼ばれる、広く白い砂浜で、松林があった美しい浜辺で、そこに神社を建立されたのが現在の八坂神社の場所です。ですから昔は現在の国道43号線付近は浜辺だったことになります。また神社も区画整備以前は現在の3倍ぐらいの敷地があり、多くの神々のお社もありました。また浜辺には青海亀や赤海亀が産卵に着ていました。《青丹によし 奈良の都は咲く花の にほふがごとく今盛りなり》万葉集にある、太宰少貮・小野老朝臣の有名な歌です。この歌にある「青丹によし」は、「奈良」にかかる「枕詞」です。この「青丹(あおに)」については二つの説があります。一つは、青は「緑色」で、丹は「赤色」のことであり、初夏には深緑が美しく、秋には紅葉が素晴らしい奈良の都に喩えたものであるという説です。この説が一般的ですが、そういう情景は日本全国同じであり、初夏の深緑や秋の紅葉などは、何も奈良に限ったことではないという見方もあります。もう一つの説は、染料の「岩緑青」と呼ばれる色の原料である「青丹」が、奈良で産出したからだという説です。この場合、「青丹」の「丹」は、赤色のことではなく、「土」のことを意味します。また、青丹から取り出した青色の染料を馴熟することを「ならす」といい、この「ならす」と「奈良」をかけているのだという説です。《青墓》岐阜県大垣市青墓町。「墓」は祖先が眠る墓所のこと。「塚」「束」などの文字が同じ意味として地名に用いられている例もある。一方の「青」は色彩とは関係がない。「墓」の接頭語的な意味を持ち、大きな墓であることを示している。ちなみに、青墓町に隣接する昼飯町には国の史跡指定の昼飯大塚古墳がある。周辺一帯が古くから霊場であったことの証明といえそうである。古代では、「アオ」とは、白と黒の間の色をすべて「アオ」と言い、「モノとモノとの間」を「アオ」と言ったのです。そういう意味で「間(a-ida)」も「会う・合う(a-u)」も「アオ」と同根(基本となる言葉)なのです。では、なぜ「青」を「アオ」と読むのかと言いますと、答えは「虹」の中にあります。虹色の順番は赤・橙・黄・緑・青・藍・紫です。虹の真中の色は「緑」です。青ではありません。本来は、「アオ」とは「緑」のことだったのです。今もその名残として、「青い森」とか「青葉」というように、緑のことを青という言い方が残っています。アイヌ語では、「中間の範囲」「あの世」のことを aw といいます。青色のことはシウニンといい、 aw とは関連しない言葉になっていますが、「中間の範囲」という「概念」で継承されています。そして実は、「あの世」のことを aw という言い方と概念が、 aw → ao (アオ)として日本語の中に残っているのです。その「アオ」とは「墓地」のことです。「墓地」は、この世とあの世の中間にあるという概念からでしょう。日本全国に、「青山」や「青島」というところがあります。実は、この「青」が「墓地」のことなのです。昔の人は、墓地となった山や島を「青山」「青島」と呼んだのでしょう。「青」と言えば、清純な爽やかなイメージですが、実は「墓場」のことだったとは驚きです。また、この「アオ」が訛り「粟(アワ)」「淡(アワ)」ともなり、「粟島」「淡島」と呼ばれているところも、昔は墓地だった可能性が高いのです。また、全国には「大島」という島もたくさんありますが、決して大きくもない島に「大島」という名前が付いている場合も、以前は「青島(墓地)」だった可能性もあると思われます。《アヲ》古代の日本語の音韻法則では母音のみの音節が語頭以外にくることはありません。現代の発音では、「青(アオ)」のように語尾に母音がくる語がありますが、これも古くは「アヲ(awo)」であり、語尾はワ行音ですから、母音のみの音節が語尾に来ていたわけではありません。「青(アヲ)」の場合はワ行音の発音の変化の結果として「青(アオ)」に変化して語尾が母音のみの音節になったわけです。《青》国道27号を走って京都府舞鶴市にほど近い、福井県の境の地名である。ここは青郷(せいきょう)と呼ばれているが、JR駅は青ノ郷(あおのごう)である。青葉山の周辺にあった集落を、昔の人々は青ノ郷と呼び、その中心が青里(あおのさと)である。近くには青梅神社があり、また、海人大綿津見(おおわたつみ)・椎根津彦命(しいねつひこのみこと)・飯豊皇女(いいとよのみこ)など、第17代履中天皇(400~405年)の皇女が禊(みそぎ)をしたと伝えられる池がある.またかつて、奈良のお水取りの際に、二月堂を建立した人々の名を読み終えたとき、自分の名が読まれなかったという青い衣の姿の人があったと伝えられるが、その人こそ、飯豊青皇女と思われる。書物に出てくるものには、青・阿哀・阿遠・阿尾・阿桑・粟生・阿乎、また手城宮跡出土木簡には青ノ郷青呈・青保と記入されている。また、『和名抄』では、阿桑・阿乎郷となっている。現代では青色と緑色は区別されているが、古代は空も、山も、海も、青と読んだかもしれない。近くには青戸入り江があり、多くの古墳がある。古代では青里も海の入り江で、青というのは聖地を意味していたのではないか。また、古代の色を表す用語は赤黒白青くらいで、明(あか)暗(くろ)顕(しろ)漠(あお)という光に対する感覚が語源であり、特に青は、白に近い色から黒に近い色までの漠然とした色の総称であったという。湿地や水辺、海岸や海辺などを示す。《青山・阿保》三重県青山町と大阪府松原市にも阿保親王塚と伝えられる古墳がある。芦屋の阿保親王塚は、明治時代の教部省が阿保親王塚と認定しているが、青山町の親王塚も明治9年3月10日に認定され、現在も宮内庁の管理下にある。青山町の親王塚は芦屋や松原のように平城天皇の皇子ではなく、第11代垂仁天皇の第9皇子「息速別命=阿保親王」とされている。「息速別命」の姉は「日本武尊」に草薙の剣を授け、伊勢神宮を奉鎮した倭姫命。同じ名前でも全く時代が異なる。親王は当時の習慣に従って乳母の名前の“阿保”を名乗っておられるはず。更に阿保親王の母上は渡来系の葛井(ふじい)氏の出だそうだ。なんのことかと聞いてると、“あぼ”は“青”に通じるらしい。三重県青山町の阿保親王塚の“阿保”は“あお”と読まれるとのこと。“青”は雄略天皇の時、部下を引き連れてやって来た渡来人のリーダーだそうだ。金属精練にたけた一族だったのではないかとおっしゃる。親王塚古墳の近くからは銅鐸が出てるし、近くには金津山古墳がある。阿保親王塚がある芦屋は勿論、葛井氏の本拠地・藤井寺市に近い松原市や阿保氏の出身地とされる三重県の青山町も渡来人と密接な関係がある。“阿保”の地名は上に挙げた松原市、三重県青山町の他に、姫路市、九州や埼玉県などにもあるそうだ。更に日本全国の阿保・青・粟などの地名を調べると無数といっていいほど出て来るとのこと。更に話は壮大になってくる、中国や朝鮮半島にも“青”のつく地名がたくさんあり、それらの分布から“青”の出身地は山東省かもしれないと説いておられる。《五色(全日本仏教会より)》「色は上と左から、青・黄・赤・白・樺の順に並べられているが、青は仏陀釈尊の髪の色で、心を乱すことなく力強く生き抜く力としての「定根」を表す。次の黄は金色燦然たる仏身で豊かな英姿をもって確固不動の身を持する「金剛」を表す。3番目の赤は情熱のほとばしる温かい血液で、大慈悲心の妙法を修めて常に止むことなき教えの働きである「精進」を表す。4番目の白は仏陀の獅子吼される皓歯で、その清純なみ心によって諸の悪を退け煩悩の苦を浄める「清浄」を表す。最後の樺は仏陀の聖体を包む袈裟で、あらゆる侮辱、迫害、誘惑などによく耐えて怒らぬ「忍辱」の徳を表す。インド、タイ、ビルマ等南方系の沙門が、現在でも黄衣の僧としてこの色の法衣を身にまとっているのは、周知の事実である。《「竜が舞う青の島と山」(南山大・目崎茂和)》風水思想で日本の地名を説明しようという試み。「青」の字をもつ青島、青山などの地名は海人族の他界への通路であり、青から変化してオウの発音をもつ地名、近江、大島などは天皇族にかかわる地名であるという主張。