もう一度フランス帰りのスタッフに確かめると「シャ・・・城」と思っていたのが「シュノンソー城」であったこと、河原の石ではなく「道」の小石であることがわかった。これで、スッキリして「螺旋」の研究に没頭できる。
《シュノンソー城》
ロワール川支流シェール川底に据えられた旧水車小屋の基台の上に建つ四角い居住棟と、四隅の小塔から成る、ロマンを秘め、貴婦人のような気品を漂わせる白亜の城館。代々の城主が女性だったことから「6人の奥方の城」とも呼ばれている。フランソワ1世治世下、財務長官であったトマ・ボイエがシュノンソーの土地に、1513-1521年、ルネッサンス様式の城の建築計画をたてる。しかしトマの代わりに、工事の陣頭指揮には、トマの妻カトリーヌ・ブリソネがあたった。トマの死後、借財返済の為、城は国王フランソワ1世に譲られる。1547年即位したアンリ2世は、もともとは父王の愛妾でアンリ2世の家庭教師で、20才年上のディアンヌ・ド・ポワティエをこの城に住まわせる。1559年にアンリ2世が亡くなると、正妻カトリーヌ・ド・メディシスが城の女主人となり、ティアンヌがシュールツ川に橋を造り直してしまい優雅な3階建ての回廊となる。シュール川の橋に屋根をかけギャラリーを作り、宴が催され、城の最も華いだ時期を迎える。後にアンリ3世の王妃で義理の娘にあたるルイーズ・ド・ロレーヌに遺贈され、彼女の死後、姪のフランソワーズ・ド・ロレーヌの手に渡る。1733年、総徴税負債人のデュパンが所有者となり、デュパン夫人が城館に著名人の集まるサロンを開く。1864年、プルーズ夫人が買い取り、城館の修復を生涯の仕事としたが、現在はムニエ家の所有。別名「6人の奥方の城」の内部は、絵画やタピスリーで飾られた衛兵の間/礼拝室/ディアンヌ・ド・ポワティエの寝室/カトリーヌ・ド・メディシスの緑の書斎/フランソワ1世の寝室/サロン等がある。川に架かる橋に2層の回廊を作りギャラリーとして利用、第1次大戦の際は、軍用病院として使われた。城館の2階には、カトリーヌ・ド・メディシスや客用の寝室があり、いずれもタピスリーや家具等で飾られている。屋根裏には、カプチン会の小修道院が設けられ、夕方になると城館の王達とを隔てる為に跳ね橋はあげられていた。台所及びろう人形館も興味深い。http://www.chateau-de-chenonceau.fr/