バイオリンをいつ誰が発明したかははっきりしてない。レオナルド・ダ・ヴィンチが発明したという伝説もあるが、彼の遺した設計図の類にバイオリンはない。バイオリン本ではアンドレア・アマティ、あるいはガスパロ・ベルトロッティ(通称ガスパロ・ダ・サロ)が最初に作ったと断定的に書かれている物も多いが確定したわけではない。はっきりしているのはこの二人の時代に出てきたということだけである(二人の作った楽器が現存している)。楽器は残ってないが二人より古いガスパール・ティーフェンブルッカーが作ったという説もある。彼の肖像画にはバイオリンのような楽器が書き込まれている。しかしその絵が後年描かれたという可能性もある。更にもっと前の時代に描かれた絵画にバイオリンが描かれているという話もあるが、いずれにしても登場から450年も経つのにほとんど変化していない不思議な楽器である。
《レオナルドとバイオリン》
1516年9月12日、フランソワ一世はフォンテンブローの夏の宮殿で盛大な誕生祝の宴をはった。この宴の催しのひとつとして、築山の広大なテントのもとに美々しく着かざった二十四人の若い娘がならんで、テオルブ、ルート、ヴィオルなどの楽器を弾奏した。その妙なるしらべは一座の貴顕紳士淑女を魅了したが、なかでもひとりヴィオルをひいた娘は、器量といい腕前といい一段とすぐれ、その席にいあわせたイタリアの画聖レオナルドをいたく感激させた。彼はさっそくその娘を呼んで、ロアール河畔のクルーの邸へ来てほしい。そなたをモデルにして「音楽」という題の絵をかいて、フランス王の宮殿をかざりたいと申し出た。だが、娘は病気の兄の面倒をみなければならないので、パリをはなれるわけにいかないといって断った。その兄というのは、ピエトロ・ダリデルリ。マントヴァの絃楽器製造人として代々名をなしてきた一家の息子であった。ピエトロはパリこそ世界の都であるから、自分の手に成る楽器の価値を認識してくれる具眼の士が大勢いるにちがいないと思って、パリへ移ってきたのである。だが、案に相違して、パリの名流はみな虚名を追ってイタリアの楽器に血道をあげ、若い彼の作品には一顧もくれなかった。ピエトロは失意と貧乏のどん底にしずんで、いまはわびしいあばらやに病をかかえて逼塞していた。娘はこういう事情をレオナルドに語った。しかし、彼は娘が美しい<カンゾネッタ・ダ・プリマヴェラ>を見事にひきこなしたヴィオルがピエトロの作と知り、その腕前にふかく感動して、必ず見棄てないと誓った。こうして、ある日、レオナルドはパリの陋巷のあばらやに兄と妹をたずねた。ピエトロは感激して、病める肉おちた頬を紅潮させながら、自分の野心を語った。彼は、ヴィオルよりももっと短く、もっと真直ぐで、絃が四つしかない、新しい楽器をつくろう。それなら、ヴィオルとくらべ物にならない完全な音色をだすことができるにちがいないと、設計図まで出して熱心に説明した。レオナルドは、その新しい楽器は自分が買いとろう、ぜひ完成してもらいたいとピエトロをはげまして、すぐに代金を払って帰った。ピエトロは病弱の身体に鞭うち、夜に日をついで、新しい楽器の製作に没頭した。そして、約束の日、レオナルドがたずねていってみると、楽器は完成していたが、ピエトロはもはや口もきけないほどの容態であった。だが、妹のカテリーナに命じて<カンゾネッタ・ダ・プリマヴェラ>の曲をひかせた。レオナルドはその嫋嫋たる音色に耳をかたむけながら、そぞろに涙を流した。あらゆる想像を絶した、今まで人の耳のきいたことのないしらべだった。ポプラのなかの風のそよぎ、湧きいずる泉のつぶやき、小妖精の美しい跳躍、消えさった春をいたむ魂の嘆き、すべてがそこにあった。だが、曲の最後で、第一絃が、甲だかい叫びをあげると同時に、ぷつりときれてしまった。おどろいてピエトロの方をふりかえると、若い芸術家の魂は、彼がつくった最初のヴァイオリンの絃とともにとびさっていた。(阿部知二他編『西洋故事物語』)レオナルドは、ナヴィリオ運河の工事を監督していた。そのくせ、公家つき建築技師という称号も、宮廷つき画家の官位も持っていなかった。ただずっと以前、彼が一種の楽器を発明したという古い記憶によって、楽師の肩書を持っているにすぎなかった。(メレシコーフスキイ『レオナルド・ダ・ヴィンチ-神々の復活』)画像は「札幌市立新川高等学校・美術科」の作品より