螺旋物語(97) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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逆立ち

《モナリザは貴族の出身》

レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像画のモデルとなった人物として知られるジョコンダ婦人(通称モナ・リザ)。これまで彼女の身元についてはいろいろな説が飛び交い、謎に包まれていたが、この度ある研究調査からその素顔が明らかにされた。フィレンツェが保管する古文書によればジョコンダ婦人の家柄はトスカーナ州キャンティ地方、グレーベとカステッリーナの間にある農園の小さな貴族であったという。ジョコンダ婦人はリーザ(Lisa)・ゲラルディーニ夫人という名前で、フィレンツェの裕福な絹物商、フランチェスコ・デル・ジョコンド氏のもとへ後妻(三人目の妻)として嫁いだとされている。一説によると、モデルをした頃、彼女は子供を亡くしたばかりで、夫のジョコンド氏が道化師を雇って、妻の顔を微笑ませたとあります。作品タイトルについては、既婚女性の敬称Madonnaが短縮されて「Monna・Lisa」となり、英語では「n」を重ねないことから「Mona・Lisa」の表記が一般的に広く用いられています。レオナルドが「モナ・リザ」の制作に着手したのは1503年頃、彼女が24歳のとき。

夏目漱石は短編「モナリサ」(明治42年作)で、主人公の妻に「モナ・リザ」を“気味の悪い顔”と言わせ、“此の女は何をするか分からない人相だ”“見ていると変な心持になる”と批評させています。また、ルイ16世は、この絵を嫌って侍従の部屋に追いやってしまいました。たしかに「モナ・リザ」はまつ毛も眉毛もないうえ、左右で別の表情を浮かべています。その微笑みが醸し出す雰囲気には、形容しがたい独特のものがあります。レオナルドは「モナ・リザ」の制作に4年の歳月をかけ、結局は未完成のまま(手の部分の未完を指摘する専門家が多い)筆を置いたといわれています。そして、愛着が深すぎたためか、終生身辺から手離そうとしませんでした。彼が死ぬまで手元に置いたのは「モナ・リザ」と「聖アンナと聖母子」と「聖ヨハネ」の三点だけです。レオナルドは、あるいは生母カテリーナの面影を「モナ・リザ」に託したのかもしれません。
「モナ・リザ」誘拐犯ペルージアは、ナポレオンが略奪した絵画をイタリアヘ返したと主張しましたが、実際はレオナルド自身が、終焉の地フランスまで持ち去ったのです。彼の死後、遺言で弟子のメルツィに託され、その後、レオナルドの晩年のパトロンであった国王フランソワ1世が正式に買い取り、フランスの秘宝となりました。この作品は、フランスでは「ジョコンド夫人」(La・Joconde)と呼ばれており、イタリアの動詞「giocondare」(ジョコンダーレ=楽しむ)と音も似ていることから、「微笑む女性」のイメージとともに、この呼称で広く親しまれています。

「モナ・リザ」が国外へ出たのは、1911年の盗故事件をのぞいて、1963年のアメリカ巡回と1974年の日本=ソ連巡回の二度だけです。現在「モナ・リザ」は額縁ごと防弾ガラスのケースに入れられ、厳重に守られています。盗難直後、イギリス政府は「モナ・リザ」に5百万ドルの価値を認めています。事件解決に一役買ったフィレンツェの画商は、フランス政府から2万5千フランの謝礼金を受け取りました。また、ニューヨーク・タイムズ紙の投書には、“フランソワ1世は「モナ・リザ」を9千2百ドルで買ったと言われている。複利計算をしてみると、発見された1913年の時点でも約16億3千万ドルの値はつく”とありました。

《札幌市立新川高等学校・美術科》

2000年2月29日~3月26日まで、東京都美術館で開催された「モナ・リザ 100人の微笑」展で、いつ誰に届くかわからない不思議な電子メール「ボトルメール」を使ってモナリザをテーマにした作品を応募するコンテストが行われました。1年生140名が応募し、優秀賞2名、入選6名が選ばれ、優秀賞の作品は、101人目の作品として展示されました。(紹介した画像はその中の1枚です)