杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -11ページ目

ひきこもりや生きづらさの問題を、当事者の目線から取り上げる情報発信メディア『ひきポス』

 

そして、まちやむらを元気にするヒントが満載の地域づくり情報誌『かがり火』

 

この全く関係なさそうな2つのメディアが、今回、謎のコラボレーションを実現させました!

 

僕は『かがり火』のWEB版「かがり火WEB」の運営を担当しているのですが、友人が『ひきポス』の編集部にいたため、今回のコラボが実現しました。

 

「共に生きる」という思想を共有する、メディア同士の新しい試み。

 

詳細は記事の冒頭に書きましたので、よければお読みいただければ幸いです。

 

《ひきポス×かがり火コラボ企画》【ひきこもりと地方】岩手県釜石市 女性ひきこもり経験者 土橋詩歩さんインタビュー「あの履歴書はもう二度と見ることはない」

 

 

 

 

友人と喫茶店で話をしていると、話題が二拠点生活→移住→和歌山→熊野古道→高野山と転がっていき、やがて「空海は天才」という話に至った。

 

空海は平安時代の僧侶で、真言宗の開祖。弘法大師の名で知られる。

 

神童と呼ばれて育ち、やがて仏教に目覚め、厳しい修行の後に唐(中国)に渡った。そこで恵果和尚から密教の秘法を伝授され帰国。日本に密教を広めた。高野山を開き、数々の土木工事などで民衆を救った。

 

そんな空海の天才性について話している時、友人はふいにこう言った。

 

「しかし、その頃の時代の天才って、どんなことを言ったんでしょうね。現代の僕たちが言う天才とは、ちょっと違うかもしれないと思うんですけど」

 

確かにそうかもしれない。

 

天才にもいろいろあるけれど、僕らが思う典型的な天才のイメージは、たとえばアインシュタインとか、ノーベル賞を取るような人物ではないだろうか。でも空海の天才性というのは、ちょっと次元が違うような気がする。

 

もちろん記憶力、理解力、応用力などが抜群に優れていたことは容易に想像できる。でも彼の時代の天才性は、もっと目に見えないもの、論理を超越したものをつかむ能力だったのではないか、という気もする。もちろんそれは、現代の天才性との対比において、ということだが。

 

そこで僕がふと思ったのは、空海の天才性というのは、一を聞いて十を知るような能力、すなわち、「ということは」と気付ける力だったのではないか、ということである。

 

それは現代の天才にも言えることだが、かつてはもっと直感的で、神秘的な内容をも許容するものだった気がする。

 

そしてそれが天才と認められるためには、それを天才と認める一般の人々にも、そのような直感や神秘的なものを受け入れる感性がなければならない。

 

ここに近代的な天才性と、前近代的な天才性の違いが生まれてくる。

 

たとえば、ひとつの水滴が湖の上に落ちる。そこに広がる波紋を見て、「ということは」と、自然の法則の全てを知る、といった具合である。

 

もちろんこういう経験は多少なりとも誰にでもあるだろう。「ということは」と口にした時、それはその出来事と何かのつながりに気付いているのである。

 

ただ空海のような天才は、どのような些細な出来事からも、いちいち「ということは」と何かを発見し、学びを広め、深めていったのではないだろうか。

 

このような学びが可能なのは、あらゆるものはつながっているからである。全ては関係性と共にある。なにものともつながらない個別のものなど存在しない。

 

「全てはつながっている」

 

そしてこれこそがまさに、空海が学んだ「密教」の真理であった。

 

異国の地で密教を伝授された空海はとんでもない天才だが、その空海が持つ天才性と、空海が学んだ「仏教=密教」は、そもそも相性が良かったのかもしれない。

 

 

 

毎朝、同じ公園を散歩していると、その日によって、景色の見え方が全く違っていることに気づく。

 

気候や、季節や、時間によって見え方が変わるのは当然だが、それ以上に、その時の自分の状態が、景色の見え方に反映されているのだと感じる。

 

何か心に焦りや悩みがあったり、落ち込んだりしている時は、景色が見えているようで、実は何も見えていない。

 

「雨が降っている」「木々が青々と茂っている」「鳥たちが地面を突いている」という映像を、ただ情報として眺めているだけ、という感じなのである。その時、景色は頭で処理されるだけで、心にまで入ってこない。まさに「心ここにあらず」の状態である。

 

一方で、調子のいい時には、その景色を頭で知るのではなく、心で感じている自分がいる。普段の自分の、もうひとつ奥のほうから、景色を眺めている感じだろうか。

 

ただ、この調子の良さというのも怪しくて、「よし、今日も散歩を満喫するぞ!」と前のめりに景色を眺めると、けっきょく頭で情報を処理してしまう。「雨が降っている!」「木々が青々と茂っている!」「鳥たちが地面を突いている!」という情報を能動的に取りに行く感じで、それはどこか空虚な感じが伴うのである。

 

多分、こういうことではないかと思う。

 

「知る」ということは、「分ける」ということである。何かを知ろうとした瞬間、そこに、知る主体としての「自分」と、知られる対象としての「何か」を設定しているのである。こうして自分と世界は分断される。

 

だから、何かを知ったときに「分かった!」というのだろう。「分かる」も「解る」も「判る」も、すべて「分ける」ことにその本質がある。

 

この「知る」という行為は、能動的な知性の働きだと言える。

 

それに対して、受動的な感性の働きとしての「感じる」という行為がある。これは五感(もしかすると六感も)を通して受け取るものである。そしてそれを感じる瞬間は、その対象と一体となっているのである。

 

これを哲学者の西田幾多郎の言葉で言えば「主客未分」とか「純粋経験」ということになるのだろう。寺の鐘の「ゴ〜〜ン……」という音を聞いた刹那、自分自身がその「ゴ〜〜ン……」になっている、というのである。

 

知ることは「分ける」。感じることは「統合する」。

 

「公園の景色を感じる」ということは、「公園の景色になる」ということなのかもしれない。これは頭で景色を捉えていては、絶対にできないことである。「公園の景色を知る」ことによって、「公園の景色になる」ことはできない。

 

それをひと言で言えば、「頭で見るのではなく、心で見る」ということになるし、それを人生に置き換えて言えば、「頭で生きるのではなく、心で生きる」ということになるだろう。

 

あの有名な『アルケミスト』という小説に出てくる「前兆を読む」ということは、この「心で生きる」ということを言っているのではないか、という気がする。

 

小説の中に出てくる、占い棒を投げる達人「千里眼」は言う。

 

「……どうやって未来を推測するのかだって?それは現在現れている前兆をもとに見るのだ。秘密は現在に、ここにある。……未来のことなど忘れてしまいなさい。……毎日の中に永遠があるのだ」

 

「前兆」は、知る前に、感じられなければならないのではないか。

 

感じることは、現在にしかできないことである。

 

過去と未来と現在は、知性によって分断されている。

 

「前兆」とは、過去と未来と一体になった現在なのではないか。

 

だから、前兆は常に語りかけている。それを感じることさえできれば。

 

もちろん現代社会での生活は、頭で生きること抜きには成立しない。けれども、本当に充実した生は、たぶん、心で生きることの中にある。

 

だとすれば、知性は手段であり、感性は目的なのだろうか。それらを分けて捉えていることが、すでに頭で生きていることなのかもしれない。

 

僕にはまだよくわからないけれど、その知性と感性の折り合いの中で、僕たちは生きているのだろう。

 

 

 

マンガやアニメをテーマにしたZoom集会に参加した。

参加者は漫画家さん、アニメ監督さん、某有名アニメ制作会社の社員さんなど、マンガやアニメの仕事に関わる方々が大半。

僕は人に誘われて参加しただけなので、一人だけ門外漢ですいません……という感じである。

その中で、小学校の図書館で働く司書の方が、

「今の子どもたちは、マンガもスマホで読むので、冊子のページをめくるのが苦手な子もいるんですよ」

というお話をされていた。

「ページをめくるのが苦手」という言葉は、ちょっと新鮮でびっくりした。

 

僕らの時代にはページをめくるのが当たり前だったけれど、そうじゃないやり方が出てくると、比較としての苦手意識も出てくるのかもしれない。

「今はページをめくるんじゃなくて、スクロールで読むんですね」

という話をしていたら、ある方がこうおっしゃった。

「巻物と一緒じゃん」

確かに。

巻物は縦書きの横スクロールだ。

「スクロールで読む」イコール新しい文化と思っていたが、昔はむしろそっちが主流だったのではないか。長文とかの場合は。

新しいテクノロジーが、むしろ古い文化や作法を蘇らせるということは、ときどきあるのかもしれない。

僕らは「巻物を読め」と言われたらちょっととまどうけれど、今の子どもたちだったら、「ああ、横スクロールね」とすんなり読めてしまうかもしれない。

そういうことが起こるのは、やっぱり人間の身体の基本構造そのものは変わっていないからだろうか。

 

そう考えれば、近いうちに巻物ブームが到来することは間違いなさそうだ。(←たぶん間違い)

善とは何か: 西田幾多郎『善の研究』講義

 

やさしく解説してくれていながら、内容の深みはしっかり維持している、本格的な講義の書。

高尚に思われがちな西田哲学が、読了後にはちょっと身近に感じられる。

西田の思想に沿いながらも、ところどころ入る著者のツッコミが、読者に安心感を与えてくれるのがよい(笑)。

プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲルら西洋思想の影響を見るのも面白く、西田が和洋の思想を統合しようとした軌跡としても興味深い。

思った以上にヘーゲルの影響が大きく見えるのも、やはり近代化に邁進する明治という時代のゆえだろうか。

個人的には、西田の考える幸福観には共感するところが大きい。

「最も深き自己の内面的要求の声」に従うというのは、カント的な道徳観に近い気がするが、それを「内なる自然」と捉えれば、人間は環境としての「外なる自然」と、魂としての「内なる自然」との統合、調和を目指す存在なのかもしれない。

けっこう分厚い本だが、著者がまさに山岳ガイドのように「もう少し歩いたら休憩地点ですよ」「ここは少し大変ですが後は楽ですよ」と導いてくれるので、読者としてはそれがとてもありがたかった。

著者の講義を直接受けてみたくなる一冊。

 

 

 

今朝の散歩中、久々に、四ツ葉のクローバーを発見した。

 

というわけで、この幸運をみなさまにもおすそわけしたく、写真をアップ(笑)。

 

 

しかも今回、四ツ葉のクローバーを見つけるコツも同時に発見した。

 

それは……。

 

 

「四ツ葉のクローバーが見つかるまで探すこと」

 

 

……深いっ!!(←人間の浅さ)

 

 

 

哲学とは何かと聞かれたら、いまの僕は「モノの見方」と答えるだろう。

 

「モノの見方」とは、世界との関係のありようである。

 

関係のありようが変われば、世界が変わる。

 

だから僕にとっては、哲学は世界を変えるものである。

 

哲学書というと難解なイメージがあるけれど、僕は気にせずいいかげんに読んでしまったらいいと思っている。

 

もちろん「哲学史に位置付けられるような学術的研究をやる」というのなら話は別だけど、そうでないなら、適当にページをめくりながら「へぇー」とか言ってればいいと思うのである。

 

誤読のオンパレードでかまわない。誤読もひとつの創造である。大事なのは、自分の読みが常に誤読の可能性を孕んでいることを知っていることである。

 

誤読の典型は、書かれている内容を、自分の文脈に合わせて歪曲してしまうことである。

 

これはどんなに気をつけていても、誰もが無意識にやっていることだろう。

 

それはそれでひとつの読み方ではあるけれど、その場合「この本、あんまり面白くなかったな」という感想になりがちである。

 

そこには自分が知っている価値観しか見出せないのだから。

 

だが、逆のパターンもある。

 

書かれている内容によって、自分の文脈のほうが変わってしまう場合である。

 

自分の文脈が変わるということは、生き方が変わることであり、世界が変わることである。

 

たった1行との出会いが、その人の過去を変え、未来を変えることがある。

 

それはもちろん哲学書に限らないけれど、やっぱり千年単位の風雪に耐えてきた思想は、それなりの深みを持っている。その思想をふまえて書かれた現代思想の書もまたしかりである。

 

1000年読み継がれてきた本は、1000年人間と仲良くやってきた本である。

 

じゃあ僕だって仲良くなれる可能性があるんじゃないか?

 

そう考えたら、ちょっとだけ哲学書のハードルが下がる気がする。

 

何より、ことあるごとに「アリストテレスはさぁ……」とか言いたいじゃないか。「プラトンに言わせれば……」とか、「それはもうヘーゲルが言ってたことで……」とか、「カントはそうは言わないと思うよ……」とか、言いたいじゃないか。

 

言いたい。けど、言われたくはない。

 

とすると、カント的には、やっぱり言っちゃダメなんだろう。

 

カント曰く、「汝の意志の格律がつねに普遍的立法の原理として妥当しえるように行為せよ」。

 

要するに、「他の人たちもみんなお前と同じように行動したとして、お前はそれでもええんか?」というわけである。

 

いやだ。言われたくない。だから、言いたいけど、言わない。

 

なんかカタコトみたいになってしまったけれど(笑)、そういう「モノの見方」ひとつで、友達に嫌われずに済むというご利益もある。

 

そう思いながらいまヘーゲルを少し勉強しているのだが、ちょっと何言ってるか分からない(笑)。

「都会で暮らしながら、どうやって自然との関係を結び直していくのか」

 

これがいま、人々の大きな関心になっている。

 

都会の特徴である均質な時空は、人間の五感を鈍らせ、生きる上での大切な学びを奪う。

 

何より、人工的な空間が当たり前になると、「全ては人間によってコントロールできる」という幻想が思考を支配するようになる。そのうちに、不慮の事態に出会ったときに対応できない精神と身体ができあがる。

 

「自然での学びを回復しなければならない」という思いを抱きつつも、誰もがすぐに自然豊かな田舎に移住できるわけではない。そのような中で、さまざまな取り組みが試みられてもいる。

 

都会と田舎の二拠点生活。週末移住。農産物を通した地方とのつながり。都市と地方の関係人口を増やす「おてつたび」のような画期的なサービスも生まれてきた。

 

 

他にも方法はいくらでもあるけれど、僕がふと思ったのは、ちょっと意外に思われるかもしれないけれど、「師」を持つことの大切さである。

 

思えば、師とは自然のようなものではないだろうか。

 

自分が師と定めた人の言うことは、とりあえず受け入れるしかない。たとえその時に自分が納得いかなくても、である。もちろんあまりに非倫理的なら問題だが(というかそのような人を師とはしないだろう)、なにはともあれ一度は全面的に受け入れるべきなのである。

 

なぜなら、自分には見えない景色を見ているからこそ「師」なのであり、その良し悪しを自分の居場所から判断することなどできないからである。

 

そして「なぜ師はそう言ったのか」、「なぜそのような行動をしたのか」を考える。

 

すぐに答えがわかるとは限らないし、もしかすると一生答えが出ないかもしれない。だが、そのプロセスの中で、何かしらの気づきを得る。

 

この、「まずは受け入れるしかない」という存在は、実に自然的だと僕は思う。

 

もちろん師も人間である以上、間違いはあるだろうし、自分とは根本的に方向性が違ったということもあるだろう。また、人間は自然に働きかけて都合のよい環境に変えてゆくけれど、弟子が師を変えようとすることはまずない。

 

だが、そうした自然との違いさえもまるごと受け入れてしまえば、それはなお、自然的な関係に近づいてゆく。

 

なにより、「自分自身を絶対的に正しい位置に置く」ということがなくなる。

 

この一点をだけを取っても、よき師を持つということはいかにありがたいことかと思う。

 

とはいえ、本当によき師と出会えるかどうかは、それこそ偶然的、自然的な要素によるところが大きいかもしれない。だが一方で「われ以外みな師」という考え方もある。自然がそうであるように、他人は常に何かを教えてくれている。

 

それらはもちろん自然ではないのだけれど、一方で、一人ひとりの人間は例外なく「内なる自然」を内包した自然的存在でもある。そうした混沌を抱えながら、さも整然と生きているのが人間である。

 

僕の思う「よき師」というのは、そうした「内なる自然」まで見通した上で、人間と自然のことをよく知っている人のことかもしれない。そういう人はどこまでもやさしく、また厳しい一面を持っている。

 

地方に出かけて自然を発見するのもいいけれど、都会の中で「よき師」を発見するのも悪くない。それどころか、もし地方にでかけて、自然だけでなく「よき師」までそこで発見してしまったら、そろそろ都会の生活を脱ぎ捨てる時なのかもしれない。

この季節、家にいる時はタンクトップが活躍する。

 

普通のTシャツでもいいのだが、肩が覆われているぶん、ちょっと爽快感に欠ける。いまや僕にとって、タンクトップは夏のマストアイテムだ。

 

……などと言いながら、僕がタンクトップを愛用するようになったのは、実は最近のことである。それまでは、むしろタンクトップに嫌悪感さえ抱いていた。

 

それにはこんな理由がある。

 

昔つとめていた会社に、やたらとタンクトップを愛用している先輩がいた。家で体を鍛えているようで、どうもそれを見せたいらしい。

 

会社にタンクトップで来ることはさすがになかったが、僕は家が近かったおかげで、彼のタンクトップ姿を見せつけられる機会が多かった。

 

先輩のことは嫌いではなかったが、とにかくそのタンクトップ・アピールが面倒くさい。「タンクトップ着てるオレ最高」という思いが、バシバシこちらに伝わってくるのだ。というか伝えてくるのだ。

 

だがそんな個性を許容できないほど、僕も小さい人間であるつもりはない。「こういう自分大好き!」というのは、ないよりある方がいい。そう思いながらやり過ごしていた。

 

ある夏の日曜日。その事件は起こった。

 

買い物に出かけていた僕は、15時くらいに自宅の最寄り駅まで帰ってきた。そこから家までテクテク歩いていると、その先輩が家の前で車を洗っていた。もちろんタンクトップ姿で。……嫌な予感がした。

 

「あ、お疲れさまですー。今日も暑いですねー」

 

僕は声をかけた。無事にやり過ごせることを願いながら。

 

「おお、杉原。いいところに来た。……ちょっとさ、『何でタンクトップなんですか?』って聞いてくれよ」

 

聞きたくないわ!と内心思いながらも、この状況で聞かないわけにはいかない。僕は仕方なく、ちょっと気持ちを落ち着けてから言った。

 

「……何でタンクトップなんですか?」

 

彼は額の汗を手でぬぐいながら、目を細めて言った。

 

「暑くてしょうがねぇ……」

 

それからだ、僕がタンクトップに対して本格的に嫌悪感を感じるようになったのは。

 

あれからおよそ15年。僕はいつのまにか、その嫌悪感を克服していた。というか、克服するのに15年かかった。その間、この爽快感を味わえずにいたことは、とてももったいないことだった気がする。

 

今となっては、あの先輩の気持ちもよくわか……るかと思ったけどやっぱり全くわからない

 

 

 

 

 

コロナによるマスクやトイレットペーパーの「買い占め」騒動は記憶に新しいところである。

 

転売目的での大量購入などは論外だが、「他人のことを押しのけて自分のぶんを大量に購入した」という人はほとんどいなかったのではないかと思う。他の人たちに配慮しながらも、「全く手に入らなくなると困るから、1つだけ買っておこう」ということを「みんながいっせいに」思ったものだから、需要に供給が追いつかなくなった、というケースが多かったのではないだろうか。

 

それも見越して、「みんな買いに行くだろうから、自分は買わないでおこう」と思っていると、本当に棚から商品が消えて、自分の必要最低限のぶんも手に入らなくなる……。そういう悪循環が、また次の「買い占め」騒動を生み出していく。

 

こういう事態を回避するための方法として、あらかじめ少しずつ備蓄をしておくことが推奨されている。これなら誰にも迷惑をかけないし、僕も多少はやっている。だがそれにだって限界はある。特に東京のような都市では、じゅうぶんな収納スペースを確保することさえ大変なことなのだから。

 

「それがなくなると生活がたちゆかない」ものを手に入れることは、意識としては自分の生命維持に関わることである。現代の法律においては、「自分の生命維持」は「他人の生命維持」に優先する(緊急避難)。むしろそれをせずに「他人の生命維持」を優先して、「自分の生命維持」が危うくなったとしても、それは「自己責任」として片付けられてしまう。

 

だから、「自分(たち)が必要なぶんだけは買っておこう」と思うことを「倫理」の問題にしても仕方がないと僕は思う。それは法律上の「倫理」においても正当化され得るのだから。

 

問題なのは「倫理の喪失」ではなく「つながりの喪失」なのだと思う。

 

「トイレットペーパー、もしなくなったら言ってね!」とお互いに言い合える関係性があれば、「まあウチがなくなっても、誰か持ってるだろう」とどっしり構えていられるだろう。今回のコロナ騒動でも、そういうつながりを持っている人はほとんどうろたえなかったのではないかと思う。

 

今も山梨などではけっこう残っているようだが、昔は「講」という助け合いのグループを作って、そこでお金の融通までし合える仕組みを人々は持っていた(頼母子講、無尽などとも呼ばれる)。

 

現代社会でそういう仕組みを制度的に作っていくことは難しいかもしれない。だからこそ、僕は遊びから始めていけばいいと思う。普段から付き合いのある仲間がいても、お金のことやプライベートなことが絡んでくると、積極的に助け合うことに及び腰になりがちである。

 

そこであらかじめ、仲間内で「緊急事態条項」のようなものを作っておくのである。これは「遊び」なので、ネーミングなどは大げさであるほうがよい(笑)。そして今回のような騒動が起こった時には「緊急事態宣言」を発令し、「必要物資は積極的に融通し合うこと」を義務づける(もちろんこれも遊び感覚)。

 

政府から押し付けられる緊急事態宣言などはうっとおしいと思う人も、自分たちで作った「緊急事態宣言」なら、むしろ発令する機会が待ち遠しく感じるかもしれない(笑)。

 

たとえば5人のグループで、今回のようにトイレットペーパーが不足した場合には、それぞれが持っているトイレットペーパーの数を共有しておくのもいいだろう。「俺はあと1パックやけど、お前が3パックあるんなら余裕やな」という形で安心感が生まれてくる。

 

あとグループを作っておくといいのは、それぞれ住んでいる地域も違うだろうから、そのことによって商品を購入できる可能性が高まることである。渋谷区では全然手に入らないものが、足立区では普通に売っている、ということがあるのだ。

 

今回のコロナでも、東京で手に入らなくなったマスクを、地方に住む家族や親戚から送ってもらった、という人がたくさんいたと思う。そんな感じである。そうやってみんなでシェアすることを前提にしておけば、ほとんどうろたえる必要性はないだろう。

 

とはいえ、そもそも他人とグループを作るのが苦手だったり、そういうことが好きじゃない人もいるだろう。それはそれで構わないと僕は思う。その代わりに、別の関係を増やしていけばいいのである。

 

例えば自然の豊かな場所に住んでいるなら、自然との関係を深めていけばいいだろう。その中である程度の自給自足の体制があれば最強だろうし、トイレットペーパーがなくなっても、「いや、実はいい葉っぱがあるんですよ……」という、仙人クラスの知恵を獲得する人も出てくるかもしれない(実話です)。

 

あるいは、都会に暮らしていて自然が身近になくても、「モノ」との関係を深めていくという手もある。たとえばマスクが手に入らなかったとしても、「布」さえ手に入れば、自分でマスクを作れるよ、という人もいるだろう。それはモノとの関係を深めることであり、その方法のことを「技術」と言うのである。

 

まあ一番手っ取り早いのは備蓄だと思うけれども(笑)、本当に困った時に助けてくれるのは、自分をとりまく関係性である。それは人であってもいいし、自然であってもいいし、モノであってもいいし、もっと言えば小説や映画などの物語であってもいい。

 

繰り返しになるけれど、「買い占め」騒動が顕在化させたのは倫理の喪失ではなく、関係の喪失である。そもそも倫理とは、「お互いに気持ちよく暮らす作法」のようなことだろう。その「お互い」と言えるつながりがなければ、倫理など生まれようもない。そして自分が存在する限り、「関係がひとつもない」ということはありえないのである。