なぜ「買い占め」はなくならないのか | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

コロナによるマスクやトイレットペーパーの「買い占め」騒動は記憶に新しいところである。

 

転売目的での大量購入などは論外だが、「他人のことを押しのけて自分のぶんを大量に購入した」という人はほとんどいなかったのではないかと思う。他の人たちに配慮しながらも、「全く手に入らなくなると困るから、1つだけ買っておこう」ということを「みんながいっせいに」思ったものだから、需要に供給が追いつかなくなった、というケースが多かったのではないだろうか。

 

それも見越して、「みんな買いに行くだろうから、自分は買わないでおこう」と思っていると、本当に棚から商品が消えて、自分の必要最低限のぶんも手に入らなくなる……。そういう悪循環が、また次の「買い占め」騒動を生み出していく。

 

こういう事態を回避するための方法として、あらかじめ少しずつ備蓄をしておくことが推奨されている。これなら誰にも迷惑をかけないし、僕も多少はやっている。だがそれにだって限界はある。特に東京のような都市では、じゅうぶんな収納スペースを確保することさえ大変なことなのだから。

 

「それがなくなると生活がたちゆかない」ものを手に入れることは、意識としては自分の生命維持に関わることである。現代の法律においては、「自分の生命維持」は「他人の生命維持」に優先する(緊急避難)。むしろそれをせずに「他人の生命維持」を優先して、「自分の生命維持」が危うくなったとしても、それは「自己責任」として片付けられてしまう。

 

だから、「自分(たち)が必要なぶんだけは買っておこう」と思うことを「倫理」の問題にしても仕方がないと僕は思う。それは法律上の「倫理」においても正当化され得るのだから。

 

問題なのは「倫理の喪失」ではなく「つながりの喪失」なのだと思う。

 

「トイレットペーパー、もしなくなったら言ってね!」とお互いに言い合える関係性があれば、「まあウチがなくなっても、誰か持ってるだろう」とどっしり構えていられるだろう。今回のコロナ騒動でも、そういうつながりを持っている人はほとんどうろたえなかったのではないかと思う。

 

今も山梨などではけっこう残っているようだが、昔は「講」という助け合いのグループを作って、そこでお金の融通までし合える仕組みを人々は持っていた(頼母子講、無尽などとも呼ばれる)。

 

現代社会でそういう仕組みを制度的に作っていくことは難しいかもしれない。だからこそ、僕は遊びから始めていけばいいと思う。普段から付き合いのある仲間がいても、お金のことやプライベートなことが絡んでくると、積極的に助け合うことに及び腰になりがちである。

 

そこであらかじめ、仲間内で「緊急事態条項」のようなものを作っておくのである。これは「遊び」なので、ネーミングなどは大げさであるほうがよい(笑)。そして今回のような騒動が起こった時には「緊急事態宣言」を発令し、「必要物資は積極的に融通し合うこと」を義務づける(もちろんこれも遊び感覚)。

 

政府から押し付けられる緊急事態宣言などはうっとおしいと思う人も、自分たちで作った「緊急事態宣言」なら、むしろ発令する機会が待ち遠しく感じるかもしれない(笑)。

 

たとえば5人のグループで、今回のようにトイレットペーパーが不足した場合には、それぞれが持っているトイレットペーパーの数を共有しておくのもいいだろう。「俺はあと1パックやけど、お前が3パックあるんなら余裕やな」という形で安心感が生まれてくる。

 

あとグループを作っておくといいのは、それぞれ住んでいる地域も違うだろうから、そのことによって商品を購入できる可能性が高まることである。渋谷区では全然手に入らないものが、足立区では普通に売っている、ということがあるのだ。

 

今回のコロナでも、東京で手に入らなくなったマスクを、地方に住む家族や親戚から送ってもらった、という人がたくさんいたと思う。そんな感じである。そうやってみんなでシェアすることを前提にしておけば、ほとんどうろたえる必要性はないだろう。

 

とはいえ、そもそも他人とグループを作るのが苦手だったり、そういうことが好きじゃない人もいるだろう。それはそれで構わないと僕は思う。その代わりに、別の関係を増やしていけばいいのである。

 

例えば自然の豊かな場所に住んでいるなら、自然との関係を深めていけばいいだろう。その中である程度の自給自足の体制があれば最強だろうし、トイレットペーパーがなくなっても、「いや、実はいい葉っぱがあるんですよ……」という、仙人クラスの知恵を獲得する人も出てくるかもしれない(実話です)。

 

あるいは、都会に暮らしていて自然が身近になくても、「モノ」との関係を深めていくという手もある。たとえばマスクが手に入らなかったとしても、「布」さえ手に入れば、自分でマスクを作れるよ、という人もいるだろう。それはモノとの関係を深めることであり、その方法のことを「技術」と言うのである。

 

まあ一番手っ取り早いのは備蓄だと思うけれども(笑)、本当に困った時に助けてくれるのは、自分をとりまく関係性である。それは人であってもいいし、自然であってもいいし、モノであってもいいし、もっと言えば小説や映画などの物語であってもいい。

 

繰り返しになるけれど、「買い占め」騒動が顕在化させたのは倫理の喪失ではなく、関係の喪失である。そもそも倫理とは、「お互いに気持ちよく暮らす作法」のようなことだろう。その「お互い」と言えるつながりがなければ、倫理など生まれようもない。そして自分が存在する限り、「関係がひとつもない」ということはありえないのである。