学びをつくる会世話人リレーブログ

学びをつくる会は、子どもたち自身が主体となり、意欲的に学ぶ実践をつくる出すことをめざして研究を進めています。
このブログでは、学びをつくる会の世話人が、学びについていろいろな角度から迫っていきます。
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12月25日 お元気ですか? 皆様

ブログがうまく動かず苦心しています。これがうまくいけば復活できます。岩辺

12月25日(月)復活!岩辺

ブログが中断していました。これでうまくいけば、記入できます。

岩辺

九州で思ったこと②

 共通テストの記述式なんてことが出て来て、その分析に手間取っている。気分転換に、②を手直しして、そうするともう完了としようとなる。

 九州で思ったこと②

 被害としての大きさ広さからいえば、道路の被害が大きかったのだろうと思った。町や村の道もそうだが、山中を通る村道や林道で、橋や谷側の埋め立て部分が至る所で崩れている。山がちなところで道を通せば、斜面を横切らない道はあり得ない。上の斜面を削って出た土砂を下に埋め足して路面を作る。集落の家の敷地でも同じで、斜面に建てた所が崩れている。そういうわけで至る所が通行禁止なのだが、軽4駆は実に便利で脇の畑道から先に進めたりしてあちこちを見られる。ところが、山中だけはそうはいかない。横の草の道に入った挙句、細い所で何度も切り返してUターンとか、それさえできずにぎりぎりの幅でかなりの距離をそろそろとバックしてということも多い。もちろん、苦労は覚悟で入るから、しまったとはならない。
 阿蘇大橋は両岸・上下流ずいぶん頑張って接近したのだが、結局直接見えるところまでは近づけなかった。崩れていない道路は全て工事中で止められる。作業優先はもちろんだから、強行突破は遠慮する。停止線までの細い道も、重い作業車を通した痕がはっきりと、無残についている。
 大橋付近の大きな山崩れを木の間越しで詳しく見ると、かなりの比高差で幅も広く崩れている。下に小規模な堆積も出来ている。だが、山古志で見たような大きな流れ山といった規模ではない。崩れた厚さが薄かったようだ。たぶん土質の違いなのだろう。他の幾つもの山崩れも似た様子だ。大橋の東岸の橋基部は残ったようだが西岸の橋基部はどうなのだろう。当時の写真ではその様子は見えない。橋基部自体が崩れたのか、上部からの山崩れの土石で押しつぶされたのかもわからない。その山崩れも、写真では山体崩壊のように大規模にも見えるが、付近で見ると崩れた土砂が山になるでもなく下の流れを堰き止めるでもなかった。すると量はそれほどでもなかったようだ。ニュースなどでは、そのようなことはわからない。いろいろな調査などが整理されて全貌が明らかになるにはもう少し時間が必要なのだろう。大橋周辺を震災遺産として保存する話も出ているようだ。山古志の山体崩壊現場を阿蘇の人たちが見ていれば、としきりに思った。1970年完成の橋だから中越震災のずっと前だ。大橋の崩壊現場に近づいていないので、はっきりしないが、何かが(予防的な、被害の軽減など)出来たのかどうかもわからない。こういうことは、津波にしろ地震にしろ豪雨にしろ、全国どこでも言えそうに思う。今回回った九州では何処でも、宮崎などでも、噴火は考えても地震は(九州では)考えていなかったということを聞いた。
 いっぽう、帰り道で泊まった四国中央の寺で、この寺も半分は埋め立てだから崩れるかもという声を聞いた。やはり四国は進んでいると、すぐ思い当ることがあった。3・11の時、津波とは何だぼくの知る知識と合わないと、調べて、唯一津波のきちんとわかる模式図を見付けられたのが、高知(市だったか県だったか)のHPだった。本当に唯一、全国の津波の模式図は、3・11当時いい加減だった。今はほとんどよくなっている。3・11は、少なくとも大津波について、学者や教科書的な物を含めて大きな知識の変化をもたらした。その点で、高知の先進性は、素晴らしい。

九州で思ったこと  17年への年越しの旅①

 年越しの旅の計画に入ろうと、地図を広げた。そこで、今年に越えた旅をまとめていなかったと気付いた。振り返って何が得られたか見直してから次に向かおうという殊勝な気になった。

 九州で思ったこと  17年への年越しの旅①

 2年ぶりに九州に行こうと思った。熊本の被害の様子を見よう、阿蘇大橋の崩壊現場を見よう、地上に現れた断層のいくつかを見られないか。その被害に被さった水害がどうなのかも知りたい。熊本への往復ついでに寄れる西の水城(みずき)や大野城など、東の西都原古墳群にもまた行きたい。いつもの通り瀬戸内を夜行フェリーで寝ながら楽に越えて、大宰府経由の西回りで熊本周辺に入り宮崎経由の東回りで帰る、あるいはその逆順のコースが妥当だ。だが、雪に遇わないか渋滞の具合はどうかと考えると、大阪か神戸に一日で行けるのかが不確定になり、フェリーの予約をするわけにいかない。そうなると途中の九州の宿も予約できない。どこでどれだけ日数を食うかわからないから次々その場で取るしかないということになってしまう。年末年始の30日~3日だけをまず確保して、あとは成り行き任せとするしかない。
 計画は難航した。年越しの宿探しがいつもの数倍厄介だった。年々民宿的な旧式の宿は減っていて、苦労は覚悟の上だが、なぜそうなのか、地域性か、今年という時か、旅の間中考え、今もわからない。ただ一つこういうことからなのかと思うことがあった。探し回った末のある旅館の応答で、るるぶその他いくつかの大手の業者の名を挙げて、問い合わせてくれということがあったのだ。おやっと思ってしつこくあれこれ聞いてみると、どうも値段から仮予約まで手続きを握られているらしい。子会社化というか専属契約というか、自立した宿とは言えないところまで来てしまっているところが増えてるのかもしれない。今までなるべく小さい所を探して来たからこういうのに初めて出会ったのだろうか。九州中部が資本に食われているのか。2食付き6千円以下という宿はもうあり得ないのか。
 宿が取れる日が前後したりして、熊本直行となってしまった。しかも高速でとなって、この旅は熊本から始まった。熊本周辺の被害、といっても見えた限りでの、特に建物被害は、報道された様子とはかなり違っていた。益城町中心部は大通りなど片付けが進んで無残な様子はないが、すぐ裏の細道には、瓦礫となったり半壊で危険の認定カードの張られた家など、住めないところも多く見られた。人影はその周辺に見えない。だが、それは限られた狭い範囲で、すぐそばは普通通りの暮らしのようだ。最も驚いたのは、これらより遠く10Km20Km離れたところで、屋根の全面や棟にブルーシートをかけた建物がいくつもあったことだった。人家から離れた古い神社の土台がずれたり、石灯籠や墓石が倒れたりしたのも何か所でも見た。断層が動くということはこういうことだとつくづく思った。被害は筋状になっているのだろうが、車はそうは動けないから、その筋がどうつながっているのかずれているのかまでは知れることではなかった。道路などが割れたリ盛り上がったりしたところは多く見たが、断層の現れといえそうなところには出会わなかった。緑川水系の通潤橋を含めて幾つもの石橋や、ずっと奥の内大臣橋なども見に回ったが、びくともしていないものも半壊状態のものも様々だ。道路は倒木など豪雨の方がひどかったようだ。
 大小の道路は至る所で遮断されているが、手前の分岐点でなくずっと奥の遮断地点ぎりぎりで看板を立ててあって、ずいぶん戻らされた。これを不親切とか、行政の怠慢と感じたりはしない。これまであちこちで経験して、理解できるのだ。第1に、付近一帯不通なのだ。行けないのが当然で、行けるところを探すのだ。第2に、行く人はまれで、土地をよく知っている人だけなのだ。ぼくのようなわけもわからん奴がやみくもに突っ込むなんて、想定外だ。第3に、たいてい現在住人がいる集落のあるところまでは応急修理なりで通していて、遮断はその先。用事のある人たちは手前の集落までだから、看板は無用なのだ。災害時のニュースの読み方も、このようなことを前提にしないと誤った理解になってしまう。知りもしないのに調べもしない記者の勝手な主観で流される情報は多い。

安曇野の畑は今 17夏②

 降ったりやんだり続きだったのが、今日は時に小降りという具合で、まあ仕事も出来る。
 朝昼食済ませてぼんやり手順など考えていると、ガタッと音がした。来たなっと東側らしいと外を覗くと木の葉が揺れ止まるところだった。飛び出したいが、長靴を履かねばならない。長靴を履くには靴下を履かねばならない。まごまごもどかしく手間取って、外に出ると、いるはいるはそこら中に大きいのや小さいのが動き回っている。向こうの畑の方へ、カボチャを抱えたやつがのそのそと向かっている。やられた。もう手遅れらしい。
 それでも、立てかけてある竹竿をもって、勢いよく(というつもりで)突進すると、20mほどはさっと逃げる。その先は逃げるようでもあり座り込むようでもあり、こっちを向いて様子をうかがっている。屋根の上には、見張り猿がしっかり座り込んでいて、竹を振り回しても、知らん顔だ。ずっと長い竹を取りに行って、それでも到底届かないが、屋根の端を叩いて音を立てると、やっと木に移って行った。20匹ほどがあちこちにうろうろして、遠くには行ってくれない。竹で道路を叩いて音を立てながら追っていくと、ようやく山の林に隠れた。やれやれ。戻ってくると、なんと、何匹もがうごめいている。別のグループらしい。これも同じような騒動で山へ追いやって、家に入って一息ついていると、またまた外で音がする。またまた出て行って、またまた同じ追いかけごっこ。
 この日は4度もこの騒ぎをやって、ほぼ半日が無駄になった。どうも、群れが分裂して、小グループになったらしい。去年は50を超える大集団だったが、今回のは、20かそこらの2つだった。いずれも子猿が何匹もいたから、すぐ大集団になるのだろう。たぶん人口増?で山の中も食糧難が大変なのだろう。近所の畑も、今年は猿対策が進んで、ずいぶんしっかり囲われた畑が増えた。そのせいでうちの小さな畑が繰り返し狙われるのかもしれない。困るのは困るので、見つければ追うしかないが、文字通りの鼬ごっこで、いないうちに何をされても、どうしようもない。
 昨春は鹿の跡を見つけたが、今のところは猿だけで済んでいる。この上鹿や猪が現れたらどうなるのだろう。日本中の山間地はほとんどこんな状態らしいが、いったいこの先どうなっていくのだろう。(17.8 中旬 記)

安曇野の畑は今 17夏①

 今年口惜しいのは、カボチャがいくつも、たぶん5・6個、あっさり失くなったことと、じゃが薯の大部分、およそ30、引っこ抜かれてしまったことだ。どちらも、猿だ。カボチャはまだもう少し熟すのを待ってと思っていた。ジャガは植え込んで葉が茂りはじめたところだった。去年もやられて、猿はなんで葉ばかりの薯を抜くのかと思っていたら、近所の人から種薯を狙うのだと聞かされた。なるほどと思った。手を汚すことを嫌うらしい猿は、土を掘らない。抜くばかりだ。芽を出したばかりでは千切れてしまって抜けない。茂ったころになると茎も強くなって抜けるのだろう。種薯と茎はそのころまでは強くしっかりつながっているから、抜けば出てしまう。試しに掘り込んで種薯を探してみたが、残っていなかった。猿は利口だ、抜く時期までしっかり知っている。芽を出してからの、あんなまずそうな種薯も、彼らには御馳走なのだろう。カボチャは、10坪ほどの空いたところの雑草防ぎに茂らせているのだから、収穫できなくてもいいと言えばいいのだが、やはり見事に太りだしたのがなくなってしまうと、こん畜生と、まさに畜生相手に腹が立つ。
 猿害を受けない葉っぱものばかり作っても、採る時期をたいてい逃がすから、うまくない葉っぱを食うことになって、面白くない。さて困った。作るものがない。変わった珍しい葉っぱものの種をいくつも探して蒔いてみたが、初めてのものはどう芽を出してどう伸びるのかさっぱりわからず、雑草に埋もれて伸びてくれない。今年も3種試して、2度も蒔き直したが、どれもだめだ。
 10年かかって開墾して最大面積になったころ、できたものの処理に困って縮小に転じた。なんか情けないとは思ったが、やむを得ない。放棄する部分を山草園に切り替えた。今多いのは、三つ葉・ふき・蕨・こごみ・独活・アサツキといったところだ。人によっては珍重するという甘草・薊・イタドリ・スイバなどは雑草として躍起になって刈り取っている。時には食べてみるが、あまり感心しない。野蒜は邪魔にもならないからほっておく。行者ニンニク・カタクリは大切に増やしていてまだ食料にはならない。
 耕す畑よりは抛っておいていい面が多いからずいぶん楽になって、いろんな山草の芽出しから成長や収穫法を知って来た。だが、山菜は野草だから、勝手にとんでもないところに進出し、後には別の雑草が茂り、勢い盛んなのが翌年はあっさり消えてしまったりする。周囲の林の木の茂り具合や鳥の運んできた何やらの草木などと微妙に影響しあっているようだ。人工的に作られた野菜とは勝手が違う。そして、生えてきたものをこちらの都合で取捨てるのには、たいていずいぶんと悩む。そこには貧乏性も多分に影響して来て、生えてしまったものは生かしたいという仏心?を刺激する。そうやって生やしたものが、慎ましくしていてくれないで、のさばりかえって、他の大事なのを押しのけようとし始めたりして、一応分けている種別の地区割りをますます混乱させ複雑化させてしまっているのだ。                (6月末 記)

岡山 市内 17夏

 春ここに書いたように、やたら忙しかった。時間の余裕というか気持ちのゆとりがなくて、忙しいというあいまいな言い方にしてしまう。旅もしたしほかにもいろいろあったが、メモ程度しか残せなかった。それを気にしていると、今がおろそかになってしまう。いくつかだけ残してあとを捨てるという気持ちの整理をすることにした。夏から逆順に辿る。

 岡山 市内 17夏

 全国教研が岡山市だった。分科会日程の後の余裕をまるで都合できなかった。つまり車で帰れない。ということは車で行けない。やむを得ず新幹線となる。いずれ車なしになるのだからその準備だと自らをなだめて、カメラを持たないという阿呆な制約を自分に課して行った。時間は短く体は楽だが、面白くもなんともない単なる移動だ。
 調べてみても、周辺の見たいところは、車以外では、電車もバスもえらく不便だ。車に慣れたからでなく、現在の日本の旅は、とんでもないことになっている。旅館などが廃業していくのも当然だ。旅といえば旅行業者のいわゆるツアーが当たり前となってしまっている。それは旅する側の旅意識の低さから生まれているのではない。自分の行きたい旅が、コース選択という宛がい扶持の中のどれかを選ぶという以外にはできないようになってしまっているのだ、金と時間で制約された庶民には。業者の作るコースに入らないような地味な渓谷とか遺跡とか、望むべくもない。車を動かせなくなったとき、ぼくの旅も終わりと予想せざるを得ない。唯一の可能性としては、レンタルの電動自転車か。単なる自転車では、行けるところが坂道のないところと制限されてしまう。だが、これのレンタルは驚くほど少ない。電車やバスに持ち込めるスポーツタイプの電動折り畳み自転車が出てこないものか。
 移動の便から駅付近をベースにし、岡山市内を足で歩き回るのに3日あればいいだろうと、安宿を探したが無駄だった。つまるところ駅前のビジネスホテルに予約して資料も宅急便で送って身軽に出かけるということになった。夕飯で土地の話を聞ける店に行き会えればめっけものだ。

 名立たる後楽園や岡山城はよかった。翌日別の道から行き直した。他に行きたいところも見つからず、通りをいくつか歩いても、結局そこに集約されていくということでもあった。城下町はそうなっているのだ。郷土博物館も見ごたえがあった。半日以上を過ごした。
 最も見ごたえのあったのは、分科会終了の帰りに寄った、岡山空襲展だった。前の日は開いていなかったし、そう期待していたわけでもなかったが、残り時間を少しでも有効にと行ったのだった。あまり広くない面積だったが、工夫された見ごたえのある展示だった。多くの地点の当時と現在の写真が同じ角度・大きさの一組ずつで示されていた。また、ある場所の、直後・数日後・数年後・十数年後・現在の一組があった。焼け跡に、数日後にはバラックが建っていたこともはっきり写っていた。やはり東京とは、地域柄の事情が違うのだと思わされた。周りに材料があったのだ。
 短い時間で、片付け始めるのを横目に粘って見ていたので、説明を求めるわけにもいかず、企画や運動についても知りたかったが、残念だった。写真を残せなかったのも悔やんだ。なんであんなちっぽけなカメラを持って行かないと考えたのだろう。

 中心部の道に、空襲の痕がいくつか残っていて、古びた説明板もあった。機銃弾で打ち抜かれた橋の欄干のコンクリート板、別の橋の焼けて黒ずんでいる橋柱とその周囲。空襲慣れになった東京などと違って、岡山の人たちにとって、いかに大きな出来事だったか。だが、それだけで今日に残るのだろうか。空襲展の帰りに、思い出していた。(8.25.記)
 

北海道 17初秋  ③

 富良野といえば花、ラベンダーということの実態も知ってしまった。宿の親父を捕まえて、飲みながらずいぶん長い時間お互いに喋り捲って、土地の生の姿が見えてくる。時の勢い、流行りの中で出来てくる知名度、そこに出来上がる収入の流れ、ということはその中で生きる人の生活でもあるし、町の税収入の問題でもある。
 最盛期とも言えない、しかもウィークデーでも、何台も次々に来ては出ていく観光バスがあって、人々は眺めもそこそこに、売店であれこれを眺めて何かしら買って食べて去っていく。売店も、美術館風の拵えなども工夫してあって、1円も使わない我身が後ろめたいが、楽しそうな姿を見るのも悪くはない。今は観光拠点でしか作られていない花々であっても、花の富良野であっていいじゃないかと思った。実際、その花々は綺麗だった。
 ぽつんぽつんと、あちこちに開拓記念碑がある。ほとんどがひっそりと、訪ねる人もなく、もちろん案内道標などない。だが、開拓何十年記念といった建設の趣旨などが添えられていたりして、わずかに推測できる。何kmも何十kmも離れ離れに孤立して、一人たいていは一家族の開拓者が住み着き、苦労して拓き始めると、可能性を信じた追従者が次第に増えてやがて村を作るようになっていく。その先人を称えるのが碑文のほとんどだ。今目にする広がりは、当時は森林で見通せなかったはずだから、その孤独感はすさまじいものであったろう。肉体的苦労や飢えなどを思うより、まずその孤独を思った。特に厳寒の冬、吹雪の中など、どうだったろう。氷の何十日もを耐え抜き、それが何年も繰り返される。狼や熊の害も記されていたりするから、その恐怖もあったろう。挫折した人、あるいは消滅した(こういう言葉しか使えない)地点の記録のかけらでも見つからないかとわずかな期待が、今もずっとあるのだが、やはり偶然に見つかるものではなさそうだ。
 拝み小屋という壁無しの屋根だけの家が、最低の家であったがむしろ金のあった人たちの内地風の家より冬は暖かった、というようなことを書いてあったりする。解説のイラストなどで見ると、竪穴式住居とほとんど同じで柱組が違うらしいだけだ。実際に床を下げていたのも多いらしい。ただ、平地に掘り下げずに、壁の外側の裾に土を盛り上げたようだ。これは、アイヌのチセと同じようだ。チセでは入口の工夫がしてあるのに、和人はなぜ真似なかったのだろう。
 蓄電池式のラジオというものを初めてみた。かなりの大きさの箱の上にスピーカーの箱が載っている。本体の箱の正面の2つの大きなダイヤルは、選局用と音量用だろうが、真っ黒けで文字記号が見えなかった。蓄電池式とは不思議なものに出会ったとボケっとしばらくは見ていたのだが、そうだ、電気はなかったのだ、ランプ暮らしだったはずだと、やっと気づいた。疎開での数年のランプ暮らしを思い出した。あの時我が家にラジオはなかった、と思った。知り合いの農家に風呂をもらいに行って、ついでに「君の名は」を聞いていたっけ。
 やっと晴れた朝、馬たちがいっせいに外に出ていて、遠く近く眺めて楽しんだ。呼ばないでも寄ってくる人懐こいのもいて、撫でたり舐められたり、カメラを舐められない間合いで鼻の穴の写真を撮ったり・・・・。子どもは、馬に限らず他の動物でも人間でも、絶えず動き回るものだが、仔馬は特に見栄えが良くて、楽しい。大きな図体になっているのが甘えて母馬の腹の下に首を下げておっぱいを吸うと、母馬はちょっと背中をなめてやったりしておもむろにあるき出したりして外してしまう。仔馬は何度も何度もしつこくくっつく。母馬も次第に振り払うしぐさが早くなっていく。やがて子馬も仲間の子馬と駆け回り始める。
 よってきた3頭のうちの2頭が、鼻面を合わせて見合っている。舐めるのかなと見ているとやがて、片方が相手の鬣の根元を噛み始めた。甘噛みだとは思うがそれでもかなりきつい噛み方だ。相手もまったく同じように噛み始めた。それが互いに全く同じようにだんだん背筋へと移り、腰の上というか尻の上端あたりまでいって、噛み合いはずいぶん長いこと続いた。蛇のからみ合う(たぶん交尾中だったのだろう)のを見たことがあったが、馬同士がこんな絡み合った格好で遊ぶなどと思いがけないことだった。でかいし、姿がいいので、微笑ましさもずっと大きい。ずっとそばに立っていたもう1頭が、2番目の奴の鬣の付け根を最初の奴と同じように(横からだから姿勢はやや違うが)噛み始めてしばらくすると、一斉にやめて首を下げ草をあさりだした。馬の歳はわからないが、若そうでたぶん1歳ちょうどなんてとこなのだろう、中学生同士のわけのわかないふざけ合いと同じなのかななどと思ったりした。

北海道 17初秋  ②

 相変わらず、開拓期とアイヌ対大和を追っていた旅だったのだが、前回つながったと思った播種機の発達の、思いがけない隙間を埋める播種機を、上と中富良野で3つも見つけた。一つは、車輪に載せた種箱のタイプで、種箱の底の口の開け閉め板の回転心棒をひもで引いて回すのだが、ひもを弓の弦のように張ってその弓の端を手で押し引きするすぐれもの。バイオリン型という名が記されていた。引くだけでなく往復でできるのは素晴らしい効率化だったろう。感心してすぐ、原始の発火装置を思い出した。板に棒の先をこすりつけて発火させるその棒に、ひもを巻き付けてちょうど弓の弦のような形で効率よく棒を回転させるのがある。手押し車播種機で手元のハンドルに付けた引き金を手で握ったり離したりして蒔くタイプのたぶん前のものだろうが、地域によっての差なのかもしれない。底の穴の蓋を車輪回転連動で動かす前に、こういうのもあったということを知ったのは感激だった。
 さらに、1m余りの大型だが単なる筒でメガホン状に先細りしたものがあった。これは、メガホンの細いほうの口を手で抑えたり離したりして中の種を流したと思える。あるいは手の隙間の調節でやったのだろうか。これは、車に載せる前のものであることは確かだ。あちこちで見るたこ足型の播種機よりも前にちがいない。
 ちょっと似ているかなと思う別のものもあった。メガホン状のよりずっと小さく細長い円錐状の筒の上縁にやや長い取っ手が付いている。取っ手が二重で握ると先が開くらしいのだが、手を触れてはいけませんの張り紙があって、だが説明はないので、どうなっているのかはっきりとしなかった。土に差し込んで握りしめると種が出るということだと見たが、かなりの非能率そうでかなり新しい鉄製だから、つまり最近だとすれば、広い耕地全面用とは考えにくい。発芽しなかった部分に補充して種まきするのか、うんと広がるカボチャみたいなものの種を飛び飛びに蒔くのか、などと考えてみたが、結局はわからずじまいだった。
 それより、ドラムに車輪を付けて、胴っ腹に小さい穴を開けてあるのが、最も原初的な手押し車播種機だろうと、興奮してしばらく見入ってしまった。ただ、穴の大きさが数cmもあるから、大豆だってかなりの厚撒きになりそうで、ジャガイモにしては小さく、何を蒔くのに使ったのだろうという疑問は残ったままだ。
 いくつもの播種機がそれぞれの播種穴の直径からすると、それぞれ違う作物用らしいと思うのだが、麦か豆類か直播の稲か、北海道の広い土地に種をまくということの大変さはわかっても、説明がないのが口惜しい。実物も一カ所に全部揃っているわけではないから、各地方でどういう流れで動いたのかがわからないのも残念だ。地域ごとに適した作物があり、地域ぐるみその作物用の作業機の改良が進んだ、と考えるのが自然だと思うから、地域ごとにある郷土館でだけに、残念だ。だが、知識技術の伝達改良ということはこういうことかと、改めて、更に改めて身に沁みた思いはある。動力車以前の播種機だけで振り返ってみると、合計3回の旅での5地域8館ぐらいの見学での発見を通してやっと全部になったようだ。
 馬に引かせた時から動力に変わり大型化して改良されてきたプラウも実に多種のものがあちこちにあって、なるほどなるほどと、面白かった。改良が、同じ馬一頭つまり1馬力の条件での効率化であったり、その地域の土質に合わせてだったり、やがて大馬力の動力に合わせたりと、時代ごとに大きく鋭くなっていく。だが、これら機械メーカーの知恵によるところの大きいものより、耕し、種を蒔き、収穫する本人たちの直接の知恵からと推察できる播種機の一連の発達の道筋をたどったことは、本当にうれしい経験だ。収穫のための用具も、まだ探る中途で、これは作物によりよほど種類も多そうで、楽しみは先が長い。
 ちょうど玉ねぎの収穫期で、玉ねぎが詰められたでかい金網の箱が畑に何十と散らばっていたし、掘り上げて陽に干しているらしく一面の玉ねぎの絨毯が光っているのも見た。どこかで作業中のとこらはないかと探しても、北海道の畑はほんとに広くて、地平線と言いたいほどを見はるかしても、終わったところは終わったところで、そのあたり全部終わっているのだった。
 各館の説明で、縄文から弥生の稲作や水田耕作の伝播と簡単に記されているが、田というものの作り方、つまり水漏れの止め方や水の張り方、畦というものの効果や限界、水路の作り方、それもその地域の特性に合う知恵、そういった一つ一つが、これら種まき機のちょっとずつちょっとずつの改良と同じように、少しずつ少しずつ変わっていったのだろうなどと考えもした。知りたいことは山ほど増えていく。

北海道 17初秋 ①

 秋の北海道はまるで知らないと、前回の初夏の北海道で思った。緑の濃くなる具合を目で楽しみながら、鈴蘭群生林で素晴らしい蕨をしこたま採りながら、秋はいいだろうなあと次に来ることを思うのは、自然に失礼だとは頭の片方で考えてはいた。一期一会的でもないじゃないか。だが、紅葉する広大なその広がりを想像すると、縦を主とする紅葉しか見たことのない頭で、これはぜひとも見なければ死ねないと思ってしまう。
 その地の季節は、経験しなければわからない。あてずっぽうに考えて、北海道の初雪は高山で8月末平地で10月として、雪の運転はタイヤも替えねばならんしちょっと遠慮となると、安全なのは9月と見定めた。下旬から10月初めを狙ったが、あれこれ都合もあって、9月中旬に行くしかなかった。
 大雪山東の展望地銀泉台への車道が明日から止められるというのにかろうじて間に合って、噂の紅葉を期待して登った。降ったりやんだりの中の狭い急坂を10kmもあったろうか。見たことのない大規模な真っ赤な紅葉を、斜面いっぱいの赤というのを、見られた。陽射しが輝いてくれなかったが、それでも谷川岳の天神尾根で錦秋という言葉を体感した時以来の興奮を味わった。あの時も天候には恵まれないきつい沢登りの後の泥濘の道の下山だった。ずり落ちるのをザイルで止めて止めて終了した登攀の初めての新人が、もうこんな死ぬ思い嫌だと思ったけど終りにこんな写真では見られない景色をご褒美に見られるんですね、と述懐した言葉が甦る。だがあの時は、下るのも厄介な斜面で紅葉に埋まって、葉越しに見下ろす一面の赤と黄だった。今は車で汗もかかずにむしろ寒さに震えて手も届かない景色として見るのだった。広さという規模や色合いという美しさでは、もっと素晴らしいのをあちこちで見て来たと思うが、見たその時の震えるような感覚はまた別のようだ。
 糠平湖のあちこちで、廃線跡の崩れかけたいくかの橋脚や、駅跡に記念に残されたレールを見た。ニぺソツ岳に登った時は、この十勝三俣が終点で、駅から歩くしかなかった。登山口までの車道歩きが長くて、テントを張って寝てから登ったのだった。あの50年前から、時が経って廃線になってまた時が流れたのだ。山稜のナキウサギたちは元気でいるのだろうか。
 層雲峡に入る始めが大函だった。初めて中まで降りてみた。石狩川が1万年かかって削り出した見事な柱状節理。今回は層雲峡に泊まってこの峡谷を全部歩くつもりだった。だが、流星滝と銀河の滝を観光客に混じって見た先は、通行禁止、歩くのもだめだった。車は新しいトンネルで通ってしまうのだが、旧道は、崩落で止めたままになっている。物好きしか歩かない所に金はかけられないようだ。仕方なく、谷の行けるところのあちこちを探り歩いた。暇に任せて見て回るうちに、層雲峡全体がいわば大きな函なのだと見えてきた。行けなかった羽衣の滝や小函の辺りはずっと迫った形なのだろうが、宿の立ち並ぶこのあたりも、両岸の崖錐上部には柱状節理の垂壁がずらっと並んでいるのだ。層雲峡は観光地だからと何度も素通りに近い過ぎ方をしていたのが悔やまれた。
 今回の大雪を反時計回りに一回りするコース取りの後半部、つまり大雪の東側で何か気付けるかと期待していたのは、大雪の東と西の違いだった。まあとにかく広い平らだから、特に目立つものは見つからなっかったが、大雪やその南北連続の高まりとこれらの西側の平らとは、明らかに凹地を挟んでいることは感じられた。北海道を東西2つに割っている南北貫く構造線(学者がこう言っているかどうか知らないが)なのだろうと勝手に決めた。ぼくの小屋と畑がある糸魚川構造線は西に北アの高まりなのに、ここは何で東に大雪の高まりなのだろうと、新しい疑問も出てきた。
 北海道は何で四角なのだろうと思った子供の頃の思いから、やがて20代に、真ん中に南北を通す高地山波があってそれで菱形になっているのだと考えるようになった。その軸を縦走してやろうと数回分の大計画を立てた。宗谷岬から南への森林や藪の丘陵地は冬なら突破できるだろうと、宗谷の岬からスキーで歩いた。1晩泊まった朝、締め具の金具が寒さで折れて、やむなく撤退した。大みそかの夜行の車内放送で、スチームは目いっぱい焚いていますが外は38度です、ご容赦願いますと言っていたのだった。大計画は、マイナス40度で折れない金具を探しているうちに、垂直や垂直以上の魅力に変わって、消えていった。

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