野田地図『華氏マイナス320°』 | 気のむくままに

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野田地図『華氏マイナス320°C』@東京芸術劇場プレイハウス


仕事終わりでかなり疲れた日で、集中力もない中見たので、見落としがかなりある。でも初見の印象だけ。

舞台を観終わって、すぐに言葉にできる感じではありませんでした。いろんなテーマに気がついたけど、繋がっているようで、うまくまとまらず、引っかかりだけが残っている感じ。

「じゅうど、じゅうど」と繰り返される言葉が、嫌な感じとして印象に残りました。本来は状態を説明するための言葉のはずなのに、神奈川のあの事件に繋がると、言葉がだんだん冷たくなっていき、人を区別し、切り分けるためのものに変わっていくようで怖かったです。暴力的な言葉になるんだと。

そこから、優生思想や出生前診断、「意思疎通ができるかどうか」か生きていていいかどうかの線引きに使われてしまう怖さ、人の価値が判断されてしまうことなど、いろんなことが頭に浮かびました。現実の出来事とも繋がっている気がして、フィクションとして距離を取ることか難しい部分でありました。

そしてラストの手話。手話の意味ははっきりとわかりません。ただ、「わからない」という感覚が強く残り、それが、自分がこれまで無意識に「わかる側」に立っていたことに気づかされるような体験だった気がします。

それまで「わかるorわからない」で人を分ける所が印象に強く残っていたのに、最後に自分が、わからない側に置かれる。

そのことで、「わからない=通じていない」と簡単に決めつける恐ろしさを感じました。

全体を通して、うまく整理はできないです。でも、「嫌な感じ」や「わからなさ」がそのまま残されること自体に、あの日見た意味がある作品だったと思います。

疲れているのに、大倉孝二さんが出てくると集中力が増すのが不思議で考えていました。抽象的なテーマの中、彼が出てくると空気がかわり、現実に寄るというか。作品の中でそんな役割だったのか?

もう一度見たら感じることがどう変わるのかなあ。