演劇とか それを取り巻く人たちとか

演劇とか それを取り巻く人たちとか

ほぼ個人的な観劇日記に。
イベント運営+素人の視点で観ている事が多いです。
本番以外の前後も大事!

★ツイッター使い始めてみました。
@mamomya


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さてまた余計な事を言いますが、問い合わせをしてからでさえ丸一日以上経っているので。
劇場(貸しスペース)犀の穴が行政指導で営業停止、小屋入り当日に知らされた団体は急遽別の会場に変更し、今も公演期間中。それ以後に予定されていた団体も振替の会場を探している、という問題について。

10月22日に当該団体の発信から判明、それ以後、犀の穴から外に向けての発信は今に至るまでありません。
公演を予定している各団体に対しては誰も同情的、代替会場を探して何とか公演を!という雰囲気、勿論、団体は被害者側なので当然、むしろ直近の11月公演の団体はどこも何とか公演が打てそうという事、これは良い。

とても引っ掛かるのですが、劇場を借りる団体は確かに直接の契約者なのだから劇場から見たら間違いなくお客様でしょう。では、観客は劇場の客ではないとでも思われているのでしょうか?団体を通しての間接的な利用者であるはずだし、実際に劇場へ足を運ぶ沢山の人たちがいます。シンプルに観「客」ですよね。

観客に対する周知の努力をしない劇場とは。
勿論、団体側からすれば最大限観客に振替の連絡を入れているでしょう。大多数の人にはそれで行き渡るのは事実かとは思います。
でもそれで全てではなくて。だって例えば未だ紙媒体でチラシが撒かれているわけでしょう?チラシを見て、当日犀の穴に向かう人がいるかもしれない。

劇場側が発信したとて団体のカバー外の人に行き届くわけではない、その通りです。でも該当がたった一人であったとしてもその一人に届く可能性がある事、だからこそ、劇場にも踏ん張って発信をしていただきたいのです。
犀の穴はきっともうそういう事が出来ないのでしょう。ただ謎なのが、ここってシアターKASSAIの系列なんですよね?

シアターKASSAIもこの事があってから発信自体をしていません。これは、、今日だって稼働している劇場ですよね?系列の観客に関係あるイレギュラーは発信が必要なのでは。
小劇場の中では個人的によく行く方の劇場なので余計に思ってしまうのですが、それなりに知名度のある劇場でも何も対応出来ないのか!とビックリしています。

これはもう八つ当たりに刷り変わるのですが、部外の心ある演劇人はこぞって代替劇場はないか?!と協力的です。でも団体への同情ばかりでそこに来るお客さんの事まで考えてる?とモヤっとしてしまってはい、すいません、言いました!勿論、観客からしたら目当ての団体が無事に公演打てるのが一番だが。

正直な話、自分はたまたまそこで公演するはずだった団体を観に行こうと思っていた一観客でしかなく。
その立場から「え、お客さんの事もうちょっと気にしてよ」って言うのは厚かましいの分かってるよ、言わせんなよこんな事!
それこそ、部外の人たちはそこまで踏み込めないのも分かるのだけれども。

出来れば劇場を動かして欲しい。シアターKASSAIレベルの人気劇団が掛かってる劇場に
対応を求めないのは何故?これでよしとするならば、なあなあにも程があるのでは。
対応無く、一人でも犀の穴の前までお客さん来てしまったら恥だと思うんだけどな。
これはなんだ、自分の感覚がズレてるのかな?

 

 

ネガティブな事ばかり目に入ってくるのは良くないよな、とは考えていて、じゃあお前も文句ばかり言うなよ、と思ってみたりもする。けれど、必要な事は話した方が良いよな、とも。どっちだ、これはどっちだ、お前は当事者ではないだろ、案件なのか。
ただ、劇場が単に場所を貸しているだけ、だったら嫌なのだという主張。


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さて、ここまでは愚痴です。
「しょうがない」で済ませたく無いと思ったので。
ここから考えてみようと思います。
大会の審査とは、審査員とはこういうモノだ、で諦めてはいないだろうか?

全国大会なんです。
各コンテンツで最高を目指して何が悪い?
自分は生徒講評委員会が大好きで張り付いて見学をさせていただきましたが、ひょっとして年々その仕組み、ロジックはより洗練されてきているのでは?
最高の形を目指して進んできているのでは?そういう風に感じています。
勿論、まだまだな所は見ていてもあって(次は発表の部分だと思う)、けれど彼らの姿を見て「講評にはきっと理想の形がある」と思えたのです。

「生徒講評ノットイコール講評」

ではあったとしても単純にでも講評は上位交換のモノのはずだろう、と!

これは個人的に、生徒講評委員会がみっちり受けているであろう講習の内容をもっと知りたい、明るみに出したい。
出来れば、委員会メンバー以外も知るくらいになって欲しい。

そして、専門審査員にもそういった形の根を植え付ける仕組みを作れないか模索があって欲しい。
(多分、あるのかもしれませんが、今回のメンバーはそれを受けているとは到底思えません。受けてたのだとしたら機能していません)

勿論、どんな講評をしようと、どんな感想を持とうと自由だ!の精神はあるだろし、大切な部分とも思います。
ただ、土台の無い所で自由にやっても限界があります。
「理想の講評」を具現化させてもいいのではないでしょうか?

ありますよね???

あれだけの上演をした人たちが、観て感動した人たちが、傷付く様なモノがあるならば、こういうモノだからで諦めたくはありません。

とても魅力的な講評の理想を持つ方々がいるのを知っています。
先生がたの中にもこういった現状に憤っている人がいるのを知っています。
傷付いてしまった人に優しく手を差し伸べる先生がいるのも知っています。
自分の様な者にも楽しめてるか気にかけてくれる先生がいるのも知っています。

自分は客席にいて、遠い人たちばかりだけれど(「客席」は自分のこだわりなので自分が近付かないせいもあるが)、きちんと働き掛ければ何かを動かせる可能性あるんじゃないか、と勝手に思ったのですがどうでしょう(笑)

誰に、どこに働き掛ければいいですか?
どこを攻撃すれば?
どんな問題があるかは?
可能性は?お金の問題とかもありますか?
今はこういった思いを繋ぐ人もいるのだろう、頼むよ。


少しずつでも難しい事、だと思います。
観客である自分の一歩は先ず、つつく所からと。
うるさい観客がいる、は有効になる局面はあるはずと思うのですよね。

そして、講評が機能していなくともやはり観客の目があると思う。
それは届くはずだ、こんなにも見えている。どうか、その本気の想いを沢山拾ってください。

自分もそうありたくて、でも今の自分にはちょっと難しくて、人を傷付けてまで自分は楽しむのかよ、というモノにぶち当たったので、その為に休憩、心のメンテナンスをしようと思っていたのですが。
具体的に傷付けてしまった人には全力土下座でもなんでもするとして、もうちょっと頑張ってみようと思います。

なんとかなりませんか?
自分に出来る事、ありませんか??!

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全国大会の振り返りを上演側も客席側もしているので自分も。やっと。!
とても満足の出来る観劇でした。毎日自分の頭の中がキャパオーバーになるくらい各校の上演は素晴らしかった。
先ず、これが大前提です。
特に東播磨『アルプススタンドのはしの方』は去年の『Is(あいす)』と同じ様な満足を感じていました。

それだけの理由が自分にはあったわけで。
もう、観劇はこれでおしまいでもいっか!みたいな(観劇してるじゃねーか、は突っ込まれるでしょうか:笑 それはまた別の理由がありますが別の物語)
そして大袈裟ですが、高校演劇では無い演劇への少しの絶望と。

これだけのものが観れるならば、自分には大会だけを観て十分すぎるよ。
それは今回も感じた事。
実は、今夏で自分は一度、いなくなろうと考えていました。観劇をまるでしなくなる、わけではなく、この垢での発信の停止を意味します。
揺れてはいましたが、12校終演した時点ではそちら寄りでした。

でも多分、心変わりしたんだと思う。
言いたい事、考えたい事がある。

なんだ、あの講評は。

既に呟いているけれども専門審査員による講評が目に見える程、酷かった。
「私たちは評価されなかった」上演校からこんな言葉が出てきてしまう様な上演は一校も無かった。
ならば何故だ。

講評は色々な形があるモノとは思う。
高校演劇サミットの林さんの様に素敵な考え方をされている方も沢山いる。
個人的には「そこで上演が終了するそのトドメを刺すのは講評であり、観客の感想である」と考えています。
上演側が苦しむ事なく、そこで死んだとしても安らかにいられるそれが自分の理想かなと。
それは結果発表を抜きにしても絶対に出来る事だと思う。

それは上演校に対して、如何に素敵な所があって、如何にまだまだ可能性があるかを示す事。
全ての上演校にそうする事によって、例えば賞に差が付いたとしても納得が出来る様な。

最優秀賞『アルプススタンドのはしの方』はとても素敵な上演だった、最優秀は本当に妥当である、と思います。
ただし、あの講評でその素晴らしさは伝えられていたか?
「高さが表現出来ていなかった」それしか記憶に無いのですが、語るべきは本当にそんな小手先の部分で良かったのか。
「講評を聞いても結果が分からない系」という言葉がまかり通っていて良いのか。

「これ程良い作品の所には負けても納得が出来る」(負けてもは使いたくないですが、今はあえて)その素晴らしさに触れなさ過ぎるのだと。

勿論、他の作品だってそう、先ずは作品の持つ魅力に触れないでどうするのだろう。

自分は今回は賞とか上位4校が、とかは殆ど考えていませんでした。
それだけ抜きん出た作品が集まっていたと言うこと。
ある意味、安心をしていたわけです。
また、上位に入らなかった所にここは間違いないだろう、という所もあったのは事実。
でも

賞の結果より、触れるべき部分に触れられなかった、それが観客の心を掻き乱したのです。
それが上演校に、有り得ないのに「評価されなかった」と言わせてしまっているんです。

また上演校に対するリスペクトの無さも許せませんでした。
言葉を借りますが(なんで鍵垢でっ!!)
「脚本読んでるのに(みてるだけでもわかりうるレベルの)細かい設定を上演校に質問するのも恥ずかしすぎ」
その通りの事が起きていました。

自分が呟いた事ももう一度。

「今日の講評を聞いていて、あの場も舞台じゃないか、を再認識した。
毎回思う、講評を聞く事でその人の作品を観てみたいと思える様であって欲しい。
だって、話しているのはその人の演劇に対して持つロジックだろう、自然にそれは滲み出なくてどうするんだろう。 」

自分の絶望はここにあって、演劇人と言うのはそんなに人材不足なのでしょうか?
全国大会じゃないですか!
専門審査員講師だってそう、トップレベルではないのか?!
自分が観たいとも思えないロジックしか持たないかたがたがあれが最高?
観劇動機を演劇人自ら取り上げに来られている、そんな感覚を自分は受けるのです。

かの作品は「しょうがない」という痛さを示してくれました。
大会の結果はその時々、「仕方ない」「しょうがない」と如何にそんな事に囚われずにいて欲しい、という事をおっしゃる方々も沢山います。
それはその通りであり、今回、だが問題はもっと別なのではないか?と思う様になりました。

違うよ、やはり、最高の中で競って、僅かな差の中で順位が付く、という事を示せないならばそれは違うよ!
それはむしろ示せなかった方が悪かったと言えなければいけないよ。
何度も言うけれど、今回は専門審査員が本当に良くなかった。

ネガティブな事を名指すかどうか、という問題がありますが、表現で勝負している人たちなのだから名指しても良いくらいと思いますが(まあ申し訳ない事に限定的過ぎて名指している様なもの)

覚えたくはないけれど、そういう人たちがいた事をずっと覚えています。
その人たちゆえに劇場から足が遠のく自分の感情をずっと覚えています。

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