「ガンダム者―ガンダムを創った男たち」感想 | まぶたはともだち

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・ガンダム者ーガンダムを創った男たち(講談社)

安彦さんの描いた表紙。デフォルメが巧すぎる

 

小学生のころ、何かで見かけた「一生懸命話せば、何を言ってるかは伝わらなくても、本気で話していることは伝わる」とある言葉がずっと頭の中に残っていました。長らく自分の座右の銘でもあります。

 

ボクは大学生になった2012年頃まで、富野作品はおろかガンダムなど全く知りませんでした。

1秒も観たことないだけでなく、土曜18時や日曜17時からSEEDやダブルオーを放送していたことすら全く知らないレベル。

それでもなぜか、その言葉が富野氏のものであることはなぜか強烈に確信があって、ずっとネット上でソースを探し回っていました。

 

しかしどこで言ったのか、ひょっとしたら富野氏の発言ではないかもしれない可能性も考えつつ、何年も調べ続けていても全く見当がつきません。

途方にくれたある日、何気なくツイッターでこの言葉をつぶやいたところ、なんと1日で先輩がこの本の存在を教えてくれました。

 

20年越しの再会に、思わず感動しました。

以下、長いですが該当部分を引用します。

 

――しかし個性の否定とは表現者の場合で言うと、おのれの間隔、感性の赴くままに作ることの否定でしょう。個性を否定した時に必要とされるものは、その職業に必要とされる基礎的な方法論、技術を市場感覚までも含めてきちんと身につけることだと思います。そうした努力は猛烈に行ってきたのではないかと感じるのですが。

 

「どうでしょうね、そういう意味でのプロ意識が皆無とは言いませんが、それは僕にとってはプロ意識以前の問題なんですよ。テレビで作品が放映される。その作り手でありたいと思ったときから意識したのは「公人であること」です。放映されるということは公になってしまうということです。だからその作品は公としての言葉、公としての物語を提供するものでなくてはならない。すべてが私的なものであってはならないんです。その意味では例えロボットものであっても公共に流れる以上は、一企業の宣伝番組であっていいとは思えなかった。もしそうならば純粋のCMを作ればいいだけのことだから。

 しかし20分という尺があればそこに物語が入れられます。その子には物語性というものが具備されて当然であろう、といったときに物語とは一体何だというところまで考えました。自分の中に物語を生み出す作家性があるとは思えない。それは『海のトリトン』という作品の総監督を任されたときにすでに自覚していました。僕は本当は総監督を引き受けていい人間ではないんじゃないかとまで考えた上で、一つだけ拠り所にできることを見つけたんです。ある本で読んだエピソードが、公人という言葉を大人に言い変えますが、大人として年端も行かない子供たちに対して最低限やらなくてはいけないことを教えてくれました。

 それは、自分の話を聞いてくれる子どもが目の前にいるときは、とにかく一生懸命話さないといけないという事です。一生懸命話せば、たとえその子どもがあなたの話を理解できなくても、一生懸命話しているらしいという印象はひっかかって、あなたが子どものことを真剣に思っているという気持ちは絶対心に残る。そしていつかその話を思い出す。

 これを読んで全くその通りだと感じました。だから作家性云々の問題ではないのです。とにかく一生懸命やるべきだ、一生懸命やるしかないと思いました。公共の電波の二十数分という時間の中に自分の物語かもしれないもの、演出したものが流れる。その物語については、最低限これだけは伝えていっていいことではないかというものを見つける努力は一生懸命してきました。

 僕は勉強が出来なかった子でした。大人になってもテレビアニメの仕事しかできない劣等生でした。劣等生だったからこそ放送という足がかりを手に入れ、担当演出になった瞬間、一つのシリーズを任された瞬間に何をすべきかと考えて、社会人として、三十いくつの大人として次の世代に嘘を衝かないようにしようと思ったんです。それが公共に対しての責任であると理解しました。それだけのことです。

 

(P348-349)

 

このセリフが、当時10歳やそこらのクソガキだった自分に刺さった(そのまま20年抜けなかった)という事実が、メタ的に強烈な説得力を持たせています。

インタビュワーの堀田純司氏もめちゃくちゃ詳しくて、全編にわたって突っ込んだ質問をしているので舌を巻いちゃうんですよね。

 

 

富野監督は先月文化功労者顕章を受けたときも、似たような話をしていました。

 

どうやら根底にある考えのようです。

やっぱ50年以上アニメの世界で戦っている人には、それ相応の理由があるのですね。

 

いうほんと、教えてくれた先輩には一生頭が上がりません。

っていうかこれもう全知全能の神では?

 

そもそもは、Web現代での9人のインタビュー記事が始まりでした。

  1. サンライズ取締役代表(2002年当時)、吉井孝幸。
  2. アニメーションディレクター、安彦良和。
  3. 設定・SF考証・脚本、松崎健一。
  4. 美術監督、中村光毅。
  5. メカニックデザイン、大河原邦男
  6. 企画、飯塚正夫。
  7. 脚本(チーフシナリオライター)、星山博之。
  8. 脚本、山本優。
  9. 総監督、富野由悠季。

 

この本が発行されたのは2002年6月。

ターンAの劇場版の公開直後、SEEDの放送開始直前ということで、どうやったらガンダムというコンテンツに再点火できるか、焦りのようなものも垣間見えて面白いです。

 

オリジナルのアニメ、ましてやSFモノとなると、誰がどういう設定や話を考えて、みたいな役割分担なんて、意外と考えもしないものですからね。

おせじにも良くない待遇と環境、そしてスポンサーからの要請との板挟みに遭いながらも、スタッフが類いまれなる才能を発揮した。

それを総監督が自分の色を出しつつもまとめ上げたことが、40年近く経っても色あせない作品になったのだと理解させられる、非常に濃い1冊でした。400ページ以上あったのに2日で読んでしまった。

 

一応1st~逆シャアまでは一通り見てますが、作品が生まれた背景などはあまり分かっていませんでした。

 

まず、ガンダムはサンライズの社運を賭けたプロジェクトなどではなかったこと。

(そもそも小さな会社だったので社運を賭けることなどできなかった)

 

当時は、極端なことを言えば第1回と最終回以外は出てきた敵をやっつけるだけの順序が入れ替わっても問題ないような作品が多く、ストーリーに大河ドラマのような重厚な連続性をもたせた点は画期的だったこと。

 

ロボットありきではなく、当初はホワイトベースを軸にした「十五少年漂流記」のような冒険譚をイメージして企画されていて、後から商業的要請でガンダムとかモビルスーツといった設定が生まれたこと。

 

などなど。

 

合間合間に企画やキャラクターの原案なんかも載ってて、興味深く読めました。

(最終的に放送されたものが一番面白いので流石)

 

 

個人的には松崎健一氏のニュータイプ解釈に感心させられた(P116-117)ので、その辺も必読ですかね。

松崎氏はニュータイプという設定を「富野監督が途中で思いついたのでは」としていますが、一方山本氏は「大切な隠し玉としてとっていた」との見解を示しており、その辺の認識の齟齬もむしろ面白いものです。

 

また、富野氏だけはファーストガンダムの話をほとんどしておらず、TVアニメのこれまでと現状、そしてこれからについて概観しながら語っております。話し言葉でこんな語彙とエピソードの引き出しが豊富な人が、自分のことを馬鹿だとか頭が悪いとか言ってることには流石に無理があるような気もしますが。


とっくに絶版になっておりますが、是非文庫化か電子化して欲しいな……。