「小説 君の名は。」感想 断然映画より好き! | まぶたはともだち

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・小説 君の名は。

 消えていく。あんなにも大切だったものが、消えていく。

「誰だ?誰だ、誰だ、誰だ……?」

 こぼれ落ちていく。あったはずの感情までが、なくなっていく。

「大事な人、忘れちゃだめな人、忘れたくなかった人!」

 悲しさも愛おしさも、全て等しく消えていく。なぜ自分が泣いているのかも、俺はもう分からない。砂の城を崩すように、感情がさらさらと消えていく。

「誰だ、誰だ、誰だ……」

 砂が崩れた後に、しかし一つだけ消えない塊がある。これは寂しさだと、俺は知る。その瞬間に俺にはか分かる。この先の俺に残るのは、この感情だけなのだと。誰かに無理やり持たされた荷物のように、寂しさだけを俺は抱えるのだと。

――いいだろう。ふと俺は、強くつよく思う。世界がこれほどまでに酷い場所ならば、俺はこの寂しさだけを抱えて、それでも全身全霊で生き続けてみせる。この感情だけでもがき続けてみせる。バラバラでも、もう二度と会えなくても、俺はもがくのだ。納得なんて一生絶対にしてやるものか。神様に喧嘩を売るような気持ちで、俺はひと時、強くつよくそう思う。自分が忘れたという現象そのものも、俺はもうすぐ忘れてしまう、だからこの感情一つだけを足場にして、俺は最後にもう一度だけ、大声で夜空に叫ぶ。

「君の、名前は?」

その声は、木霊となって夜の山に響く。虚空に繰り返し問いかけながら、少しずつ小さくなっていく。

やがて、無音が降りてくる。

(P206-207)

 

今更だけど、彗星が降ってきた日に身体が入れ替わるってアタシんちの劇場版っぽいな……。

 

冒頭で三葉と入れ替わった滝くんのモノローグとして「そこには胸の谷間がある」と2回書いて、しかも2回目はわざわざ太字にしているの、露悪的なレベルで気持ち悪いなと思いました。

三葉のターンに「股間に何かが生えている」とは書いてなかったところに良心を見出したい

 

滝くんが友人としょっちゅう喫茶店行ってたのは、もともと彼らが建築に興味があったからなのですね。司くんだか高木くんだか忘れちゃいましたが、「木組みが良い感じだよな」という何気ないセリフにもそういう意味があったのか。高尚な趣味しててやっぱムカツクなそういえば就活のシーンでも建築会社を受けてたし……。

 

細かい違いはあれど、途中まではほぼ映画版の内容をそのまま書き起こした、といって差し支えない内容でした。

しかし↑で長々と引用した、カタワレ時の再会シーンからはかなり描写が補強されており、うならされました。なんとなくの理解で視聴者に委ねられる映像と異なり、何があったのか、文字で説明しないことには伝わりませんものね。

これは秒速5センチメートルの小説版でも感じたことでした。さすが新海誠、メディアの違いを理解している!(死語)

 

あと映画を観ていて自分が感じた最大の疑問である、「クライマックスで三葉は何と言って市長の親父を動かしたのか?」という点が、そもそも親父と正対するシーンが削られていたので気になりませんでした。三葉が自分の腕の滝くんの書きこみを見るシーンも、「カタワレ時が終わった直後」から、「親父に会うため役場に向かう途中、藪の中を必死に走って転んだとき」になっていて、この方が自然では?と思えたり。

 

というわけで、映画を観た人もそうでない人にもおすすめです。小説家としての新海誠を知っておいて損はないんじゃないでしょうか?