愛知県豊明市からこんばんは。
自家焙煎珈琲豆散人アルジです。
広津和郎「若き日」という古い小説を読みました。大正期だと思います。
貧乏で不幸な家庭で育ったのに、無邪気な笑顔が美しい、千鶴子という素直な女性が登場します。
ありがちなストーリーなのですが、どうも古い小説は読んでいて落ち着きます。
ほぼ自伝的な小説のように思われます。
主人公の父親は、明治文学に名を残す小説家で、つまり、広津柳浪です。
しかし、時代が変わってしまうと一顧だにされず、何を書いても売れません。もっとも、時代に迎合したものや、思想のない、ごく軽いものを書けば生活の糧くらいは稼げるのでしょうが、父親はそういうことをしません。
主人公も父親のその態度を是とし、だんだん生活レベルが落ちていきますが、特段気にもせず、真面目な清貧生活をしています。
こんな文章があります。
「かういう時代に『過去』の焼印を捺されてしまつた作家の価値といふものは、それに焼印を捺した新時代が栄えている間は殆ど再認識されるものではない。大躰再認識されるのはその新時代の又次の時代が擡頭した頃である。つまり息子から追ひまくられて、孫から再認識されるのである。それが歴史といふものである。」
不思議なことに、これはいろんな事象に当てはまる定理だと思います。
リバイバルの法則とでも言いましょうか。
カフェの時代の今に、インスタ映えする純喫茶がブームになっているようなものです。
次世代になると、その間に埋もれていたものが復興するでしょう。珈琲専門店が見直される時代です。
一昔前は、マシーン抽出のカフェが多かったのに、今はドリップが復権していますし、サイフォンも密かなブームのようです。
小さな動きとしては、すでに始まっているように思います。
その時代まで生きてないといけませんね。