濁貧の心 | 花鳥風月晴耕雨読~めざせアーリーリタイア、めざせ好々爺~

花鳥風月晴耕雨読~めざせアーリーリタイア、めざせ好々爺~

旧タイトル「34歳、無職です。」
→「東証一部上場企業の製品設計が最低賃金の警備員になった件」

50代で早期退職して、花鳥風月を
愛でて、晴耕雨読な余生を満喫する
事をめざすブログ。

濁貧のお話。


先日「アーリーリタイヤの戦友」と、
私が勝手に見るようになった男性、
「絶対仕事辞めるマン」氏。

改めてヒドいハンドルネームですね。

彼、どうやらウェブコラムの連載を
持ったとの事でした。


ブラック企業勤めで貯金9600万、
氷河期世代45歳独身
「絶対仕事辞めるマン」が考える、貯金が
「できる人」と「できない人」の
「決定的な違い」
https://gendai.media/articles/-/115040


はえー。
有名人になりましたな。

そのコラム内で「節約マインド」なる
考え方を説かれておりました。

こちら、私がこれまでブログに書いて
きた事と重なる部分もあったのです。

ご紹介。


 節約が続けられるマインドの事例

 A「この車買ったよ。
 いくらだと思う?
 5百万円だぜ。凄いだろ」

 B「この車買ったよ。
 いくらだと思う?
 5万円だぜ。凄いだろ」

 2台とも車の基本的な性能を持って
 いるものだが自慢している点は違う


 Aの自慢したい点は5百万円の車を
 購入できる自身の「財力」

 SNSにアップされる高級料理も
 同じ事で、高級品にアクセスできる
「自己」が誇らしい

 別の言葉で表現すると「見栄」


 Bが自慢したいのは5万円の車しか
 買えないほどの「財力」…ではない

 動く5万円の安い車を探し出せる
「能力」であり、クーポンで得した、
 携帯を格安で運用している、などの
 SNS投稿も同じ事

 また、ここでBが一番示したいのは
「合理的」という性質

 無駄を排除した高効率な生活は誇り
 でもあり、一見貧しい生活だとして
 も、Bはそれを好む


 Aの「見栄」とBの「合理性」は
 対極であり、分かり合えない

 Aから見た5万円の車は恥ずかしく
 みすぼらしいものに感じる
 Bが5百万円の車を買ったら乗る度
 不合理な支出だったと心を削られる

 貯金できるのは無論Bタイプ
 見栄を捨て合理性を取れる人
 更に言えば合理性を心地よく感じる
 人


「価値」と「価格」は全然違うもの

 Aは5百万円という「価格」を自慢
 高額だから価値があり、他人もそう
 思うだろう、だから買おう…
 これでは自分で価値判断を行って
 いない

 Bは車として走るか…安全性はどう
 か…そこが「まあ大丈夫」だと確認
 した上で多少外観がボロくても車に
 求める機能を所有した上で「安い」
 という点も自分にとって魅力である
 と多角的に価値判断している


 高い食べ物が美味いのではなくて、
 美味い食べ物が美味い
 それが安ければなお良し
 値札を食べるような行為は慎むべき

 ただしBがAより幸せとは限らない
 高価な物にお金を使う行動で充足を
 得られる事が合理的なリターンで
 あると考えるなら、Aを否定する
 根拠はない

 お金は貯まっても、Bの様に生きた
 事が間違いだったのではないか、と
 思う時もある

 何が正しいかはよくわからないね


こんなものだろう。


今日は早めの結論です。

「Bさんの方がいいよね!」

です。

もちろんです。
私自身もBさん気質なので。

事例を踏まえて考えてみるのです。


半額惣菜のお話。

どこかで誰かが言っていました。

・半額シールは価値が半額ではない
 むしろ倍だ

みたいな。

激しく同意なのです。


例えば、380円の弁当。

定価そのままで買って食べたら、まあ
美味いかな…程度なのです。

しかし私の場合は貧乏性なので、

・おにぎり2個でも良かったかな
・自炊したらもっと安く食べられたな

みたいな事を考えてしまうのです。
マイナス部分もあるのです。


ですが、そこから半額、190円に
なっていたとしたら。

・200円でちゃんとしたごはんが
 食べられる!

 一流メーカー品がこんなに安いの!





と、喜びが増すのです。

半額となることで価値が追加されるの
です。


「安さ」は安さの価値だけではなく、
「安く買えた喜び」という付加価値を
持つのです。

逆に「高さ」はハードルも高くなり、
そこそこ程度の品質では、高い割には
大したことなかった、のような落胆を
産む要因になるのです。

価格と価値は同じではないという意味
分かっていただけたかしら?


車のお話。

以前、ほぼ同じ事を書きました。

前の職場にアウディに乗っている方が
おりまして。





アウディ、そこそこお高い車種です。

私も同じく、そこから車を買おうかと
思った時期もあったのでした。


 30代半ばという年齢…
 使うことなく貯まっていく貯金…
 高い車を買えば…
 男のハクみたいなのもつくかな…
 一つ上の男になれるかな…





そんな思いが巡ったのです。


諸事情あり、結果として買わなかった
のですが。

買わなかった事に後悔はありません。

おそらく買っていたら前述のBの様に

・通勤にしか使わない物になんという
 大金をかけたものだ

と、乗る度に憂鬱になっていたと思う
のです。


幸せのお話。

以前もブログで

・誰かからの評価や言葉でつまらなく
 なるような方法じゃなく、自分が
 幸せを感じられる事をしていこう

といった旨のお話をしました。


例えば、ボランティア等で、他人から
感謝の言葉を伝えて貰えなかったり、
就職の武器にならなかったり。

それでボランティアが楽しくなくなる
のであれば、それは自分が幸せになる
方法ではないのです。


その「所作」そのものを楽しく感じて
いないのに、副産物や報酬の為にやる
行為はときに必要でしょうけれども。

仕事とか。
所作は嫌でもお賃金は欲しいものね。

でも、そうでなく「所作」そのものが
楽しく感じられる行為・趣味も持って
おくべきなのです。


前述のAの車のお話。

いい車を自慢してAが求めるのは、

「おぉーかっけぇじゃーん」
みたいな憧れや称賛の言葉。

「何馬力?何気筒?何年製?」
みたいな高スペックを愛でる言葉なの
だと思うのです。

車くわしくないからしらんけど。


そういうやりとりが楽しかったり、
純粋に車のデザインや、所有している
気持ちが楽しいというのであれば。

それは氏の言葉にある通り、合理的な
リターンといえるのです。


ただ、それが見栄や誰かに褒められる
ためや誰かの気を惹くため等の、裏の
目的があって。

その目的が達成されない事、ちやほや
されない事で楽しくなくなるのなら、
それは合理的なお金の使い方ではない
のです。


それこそ、私のように。

高い車を買うことで、自分も立派な
男になれるとか思ったのです。

セコい夢を見たのです。


私自身、高い車を持つ人は男としても
立派であるとかゲロカスな成金思考は
露程も持ち合わせておりません。

そもそもアウディに乗っていた先輩を
それが理由で慕っていたかと言えば、
それは全くないのです。

自分自身、高い車を羨む考えがないの
です。


そんな価値観のくせに、高い車を購入
したら、後悔の末路しかないのです。

高い車を持ってるから持ち主も偉い、
みたいな人間の評価方法を持っている
ような輩から高評価を得た所で嬉しく
ないですし。

そんな輩との話の接点になり得るとか
害悪でしかないのです。


そんな輩が

「おっ、車変えたじゃーん」
「いよいよオマエも軽から卒業かー」
「いくらだった?何年ローン?」
「触っていい?指紋つけていい?」

みたく絡んで来ると思うと、マイナス
要因でしかないのです。


連中からは、上の男どころか見下しの
ニュアンスで近寄って来ているとすら
感じるのです。

「お前如きが生意気にこんな車をよ」
「本当に良さを分かってんのか」

的な意思を込めて絡んで来るのが目に
見えているのです。

いやホント買わなくて良かったわ。


前述のBの車のお話。

Aのお話とは対照的に、例え誰に車を
貶されたり笑われたりしても。

高コスパで車としての機能を得られて
いるという事実は変わらないのです。


「えぇー、今どきそんな車乗るー?」
「女の乗る車じゃん」

とか、車で人を評価するような人間の
戯言に騙されず。

自分の欲しい働きをしてくれる物を、
自分の出して良いと思える金額で買う
事が出来れば。

それは誰も揺るがす事のできない幸せ
なのです。


もちろん。

「5万円で走るの見つけたのか!」
「走ってて爆発するんじゃねえの?」
「葬儀会場予約しとくなw」

てな軽口で乗っかってくれる友人でも
いたなら最高でしょうけれどもね。


時計のお話。

作家の中村うさぎさんのエッセイで、
以前読んだお話。

うさぎさんの父親のエピソードで似て
いるお話があったのです。


私の記憶が確かならば、何年か前に、
本ブログで取り上げたような気がする
のですが。

ともあれ、改めてご紹介。


彼女の父親は偽物のロレックスを買い
「コレ三千円で買えたんだよ!」
と嬉々として語った事があったらしい
のです。

偽物を掴まされたと悔しがる事なく。

本物を買えない貧しさを嘆く事なく。

かと言って物欲みたいなのを抑えず。

高そうに見えるものを安く買える事に
幸せを感じている様子だったのです。


そんな姿を、「清貧」という言葉に
ひっかけて「濁貧」と、笑い話的に
表現しておられました。


清貧という言葉があります。

せい‐ひん【清貧】
https://www.weblio.jp/content/%E6%B8%85%E8%B2%A7

・私欲をすてて行いが正しいために、
 貧しく生活が質素であること。

ですって!


ならば「濁貧」は、

・貧しいけれど私欲を律せず、出来る
 範囲の出費で貪欲に楽しむ

みたいなところでしょうか。


コスパを喜んだり。
安い割に機能する事を面白がったり。

純粋に価値を評価するわけではない、
ちょっと捻くれた楽しみ方は「濁り」
と表現できるかも知れませんね。

言い得て妙です。


辞めるマン氏も、レンチンの白米に、
豆腐や漬物や納豆や味噌汁をおかずに
した、質素な食事が旨いと言っていた
のでした。





本当は外食したいところを我慢してて
お金のために質素な食事をするのなら
それは辛い事なのですが。

質素で貧しい食事で、食事の楽しさを
十分に味わえているのなら、これで
いいのです。


私個人のお話。

正直、教えたくないレベルの魔法の
レシピなのですが。


茹でパスタにチューブニンニク少々、
塩コショウとコンソメ適量、オリーブ
オイルをかけて炒める。

モヤシやタマネギでかさ増しも可。
鷹の爪をいれても良し。

これがもう数年、週一くらいで家族で
食べ続けているお手軽ペペロンチーノ
なのです。


トップバリュスパゲッティ(乾麺)を
200gにモヤシ一袋でかさ増し。





それをワシワシと喰らうのです。

原価50円くらいで幸せなのです。


これが、

・お金ないから手製パスタで…

みたいな我慢になってたり、

・質素で良いのです…
・命が繋げれば欲はありませぬ…

みたく無欲、無関心な清貧になるのは
ちょっとつまんないですよね。


私の場合は

・腹減ったァァ今日はペペロンだァ!
 よし食うぞォ!ああうめェなあ!
 大皿山盛り食ったけど、もう一皿位
 食えるんじゃねえの!?
 コレが50円ならト◯ンタ行く必要
 ねえな!!

と、大変ご満悦なのです。


スパゲッティTREnTA (トレンタ)
https://www.trenta.co.jp/


以前どこかで聞いた記憶のお話。
真偽の程は定かではありません。

今の年配者などで、それなりに裕福に
生活してきた人の中には、

「ある程度の値段をしているのだから
悪いものなわけはないだろう」

のような見方をする方がいるとか。


たまに通販番組などで、昔の名曲CD
◯枚組みたいなのが1万円超えてたり
CDラジカセが数千円もしたり。

何十年前の値段だよ、と言いたくなる
所なのですが。

売れるそうなのです。


CMもやってるし、十分な値段だから
いいものに違いない、と考えるから。

それなりでも電子機器のリテラシーが
あるなら、その曲をただ聴くだけなら
中古CDショップで十分だと解るはず
なのです。

数百円レベルなのです。


あるいは動画サイトとかでちょこっと
聴ける分で満足できるかも知れないの
です。

少なくとも、アフターサービスなどが
信用ならないような、テレビや新聞で
広告されている商品を選ぶメリットは
ないのです。


自分で知識や工夫の方法を学んだり、
価値判断をする事もなく。

泡銭の札束で人生を乗り切ってきた
連中の生き方なのです。

これがムダに金があって、考えなしに
生きてこれる連中のやり方なのです。





清い貧しさに対抗して汚れた富、汚富
(おとみ)とでも呼びましょうかね。

死んだはずだよ。


母親の知人のお話。

ウチの母の知人が「安いから」という
理由で千円のスカーフを何十枚も購入
をしているそうなのです。

体は一つしかないのに。

で。

本人は仕事も家事もしておらず旦那は
定年過ぎてもまだ交通誘導をしている
んだとか。


挙げ句断捨離で捨てているんだとか。


自分の働きや財政状況を考える事なく
必要性も合理性もない安物買いをして
いるのです。

裕福なわけでもないのに、お金を考え
なしに使う金銭感覚は何なんでしょう
かね。

汚れた貧しさですね。

調べたら貪汚(たんお)て言葉がある
んですってね。


貪汚(たんお)
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%B2%AA%E6%B1%9A/


グルメ漫画のおじさん2人のお話。

美味しんぼの海原雄山と、
孤独のグルメの井之頭五郎。

食を愛する2人ながら感じ方は対極と
分析したのでした。


雄山は、それなりのお座敷の店の物も
アレが悪いコレは旬じゃない食材だと
難癖をつけた挙げ句、料理をひっくり
返したり、怒号を発したりします。

対してゴローちゃんは、町の定食の
ようなメニューを
「これがいいんだよ、これが」
と楽しめる舌を持っています。


コンビニ惣菜や駄菓子でも同じ。
そこにある食を純粋に楽しめる心が
あるのです。

高級なものがキライという事ではない
かと思いますが、どうなんでしょ。


ここで大事な事をひとつ。

私は高い物を買うと「無駄をした」と
思いますが、それで満足している人を
無駄だと悪く言ったり、見栄っぱりで
下品だとか言うつもりはありません。

ですが、高い物に満足する人、高い物
でないと満足しない人は、往々にして

「安い物で満足する人を馬鹿にする」

のです。


雄山がいい例です。

・こんな食い物で満足するとはたかが
 知れているな!

・お前の食い方は間違っている!

みたいな事を言うのです。

言ったかどうか知らないけど。





辞めるマン氏のAとBのお話でも。

5百万円の車の良さを分からないBを
Aはおそらく
「人間の価値も低い輩だ」
と見ていると思うのです。
(想像)

そういう思考がゲロカスだと前述した
のです。


日本には古来より
「ボロは着てても心は錦」
という名台詞があるのです。

 


例題として何か引用しようと思って
「腕時計 安物 恥ずかしい」とかで
検索したのですが、山程出て来たので
要約だけ。

社会人になって安物の腕時計をつけて
いる人を「恥ずかしい」呼ばわりする
文化があるそうです。

所有物の価値で人間を値踏みしている
姿の方がよっぽど浅ましいのです。


「この時計は値段が高いでしょう?」
「この世に安物の腕時計など必要あり
ませんからね」

「三千円でロレックスが!?
ふん!どうせ偽物でしょう」
「お前如きが高価な腕時計を一本でも
持てると思っていたのか、バカめ」

「底辺職には、みすぼらしい連中が
就いて、恥ずかしい腕時計をしている
らしいね」
「優秀な人間だけが高価な腕時計を
つけることが出来るのよ」
「みてみて!美しいでしょう?」

ってか?

「今のあんたが一番みにくいぜ!」





高い車や高い骨董品にアクセスできる
財力のある人は素直に凄いとは思うの
です。

ただ、あくまで私の感覚ですが。

それは車や骨董品という形にせずとも
年収や預金や勤め先という形のままで
十分に凄いと思うのです。

形を変えようが自慢は自慢。

「カネ持ってるぜー」も。
「ツボもってるぜー」も。
「いい車買ったぜー」も。
「高いメシ食ったぜー」も。

大差ないのです。

むしろ逆にお金でないものにした事で
壊れたり盗られたりと取り扱いに困る
のではないかとか思っちゃうのです。

どうでもいいけどね。


そろそろおわります。

結論は冒頭のとおり。


安く楽しめるならその方がよいもの。

高いものの良さを理解できたり、高い
ものを買える財力を持てたのは幸せと
言えるのでしょうけれども。

それがわからない人を見下す事のない
ように、生きようね!

なんて、金持ちに対するちょっとした
妬みが出ちゃいました。


濁貧とは、そんな金持ちを毛嫌いする
心を少しは残しつつも、自分は自分で
自分の懐で叶う幸せを貪って行こうと
する道なのです。

おいしく、まずしく。
たのしく、にごろう。

濁貧のススメのキャッチフレーズ。