イメージ。
人のイメージ。
あいつはこういう奴だ。
人は人を見る時、よくこのような言い回し
をして、そいつの事を知ったつもりになる
ものだ。
それは時に便利だ。
だが、時に危険だ。
イメージとはつくのはたやすく、しかし、
それでいて無くすのは困難なのだ。
例えば、会社の先輩と飲み会に行った際、
一回目に奢って貰ったとしよう。
二回目も奢って貰ったとしよう。
そうすれば、この先輩は「奢ってくれる」
というイメージがつくだろう。
その後、三回目、ワリカンだと言われれば
「奢りの先輩なのに」と思うだろう。
三回目、奢ったとすれば「やっぱりね」と
思うだろう。
…例えが悪かっただろうか。
回数という要素も加わるし。
例えを改めよう。
清楚、誠実をイメージにしているような
政治家、タレントが不祥事を起こせば、
その後、復帰したとしても同じイメージを
取り戻すのは困難だろう。
他人が勝手なイメージを持ち、とある理由
で別のイメージで上書きをする。
仕事の役割でその本人のイメージを作り上
げる。
あるいは作り上げられる。
作り、祭り上げられる。
そんな事があるだろう。
そんなものなのだ。
そうすれば他人を理解した気になれる。
いつだってイメージはこちらを見ている。
それは、こちらがイメージを欲している
からかも知れない。
いや、イメージの方こそ、こちらに拾って
もらう事を待っているのかも知れない。
こちらを呼んでいるのかも知れない。
…ということで、今日のお題はイメージに
ついてなのです。
特に意味もなくLUNA SEAの名盤をイメージ
したタイトルと、その説明に阿良々木君を
イメージした言い回しをしてみたのです。
もう結論まで終わってしまった位ですが、
もうちょっとお話は続くんじゃよ。
先日、父親と母親と私の3人で買い物に
行くために車に乗っていた際に、ちょっと
した会話があったのです。
今冬は雪が少なめで、1月に一時積もり、
月の後半はほぼ無し、2月頭ころにまた
降るという変化があったのです。
それを見て父親は「1月に雪がないなんて
生まれて初めてだ」と言いました。
それを聞いて母親は「生まれて初めてと
までは言えないけどね」と言いました。
それを聞いて私は「生まれて初めてなんて
安易につけるクサレジジイめ…でもそれを
逐一訂正する母はいかがだろうか」と思っ
たのです。
この一連のやりとりが、私がイメージする
私の家族(私含む)と同じだなあと思ったの
ですよ。
私の父親はこれまでのブログに時々記載を
するように、また上述のように、根拠や
理由の無いような言動が多いのです。
無いくせに思ったことをすぐ言葉にするの
です。
先日も、うちのマカちゃんが高い所から
飛び降りちゃったりしないか、怪我しない
かと母親と心配していたら
「降りるんだ、足場外してみろ」と言った
のです。
猫を飼った事もなく、今回飼っても飼育に
は何の協力もなく、獣医や本やネットから
情報を仕入れる事もないくせに、猫の気持
ちを慮ることもなく、できてないくせに、
根拠なく思慮なくしたり顔でそういう事を
言うのです。
…あ、しまった。
この話は末尾に持ってきて「死ねばいい」
のシメに使えたなあ。
とりあえず言っておこうか、死ねばいい。
ただ、父親の良い(?)所は、その自分の
ルールをそれほど他人に強要しないので、
母親曰く「やりやすい」そうなのです。
ある程度は不平や賛同しないという意思を
示しはしますが、頑固オヤジよろしく断固
拒否!とまで大騒ぎはしないのです。
もっとも、自身も他人のルールを一切受け
つけないし相容れないし、理屈も何もない
自己流をやられて不快だという点では何も
良くないのですが。
それに対し母親は、自分の中にある理屈を
持っており、それをあまり曲げず、他人に
も勧めるのです。
ちょっとわかりづらい事例なのですが…。
ボケ防止に遊んだクイズ雑誌で、「文章に
『いち、に、さん…』と数字読みできる
言葉を足し合わせる」という問題があった
のです。
例えば「国破れて山河あり」だとすると、
「くにやぶれてさんがあり」なので、
「に」と「さん」があるので、答えは2+
3=5となるのです。
それを母親は「や」とかあると「8とゴロ
で読める?」と聞いて来まして。
「はちじゃないとダメよ」と説明してあげ
ました。
その後も「くは9?」「みは3?」など、
「常識でそのようにも読める」と思うと、
新しいルールをなかなか受け入れてくれな
いのです。
「ここにある読みじゃないとダメ!」と、
何回言っても納得いかない様子で、結局
かなり私が解いた上で「コレ面白くない」
と言って止めてしまいました。
第三者から見て、本人の理屈の破綻はない
のですが、別の理論を提示されたしても、
中々受け入れてくれない頑固さがあるよう
なのです。
時にその自分の正義を出しすぎて、他人を
その正義に変えようとする部分もあるので
す。
良い例えではないかも知れず、あくまで
イメージなのですが…。
父親は異臭物、母親は消臭スプレーと言う
ところでしょうか。
父親は全方位にクサイ臭いと不快を撒き散
らすけど、他を汚しまではしない。
母親は一般的にクサくないけど、他の人の
匂いも正しく変えようとする。
変えようとするとまでは言わないけれど、
不快を露わにする…程度でしょうかね。
んで、私は母親の「匂い」で育ちました。
父親は他人の世話とか躾とか教育なんて
できる人間じゃなかったし、今もそうなの
で、その役目は必然的に母親だった訳なの
です。
なので、私の正義や考え方は母親に近く、
父親の振る舞いには二人で辟易している所
なのです。
私が学生の頃、父親はその状況を「洗脳」
とか「マザコン」と称しておりました。
その時点で、父親らしい教育や指導ができ
ていない自分を差し置いて、やっかみにも
ならない程度の発言しかできない事に対し
て、私の父親への評価は今とさほど変わら
ない程墜落していました事はもう言うまで
もないでしょう。
…しまった…また死ねばいいネタをひとつ
消費してしまいました。
死ねばいい。
ですが、私もミソジを超えた所で、それな
りに考えたのです。
感情だけで生きることが一方的に悪いか?
理屈、理論で感情を塗りつぶして体裁を
整える事が偉いか?
無論、悪いし偉いのです。
が、それを良しとして生きて、自分の感情
より体裁や面子を優先した結果潰れた私は
「偉くならなければならないか?」
「偉くならなければならないという教育は
間違っていないか?」
のような考えも生まれつつあるのです。
根っこは「父親」なのに教育は「母親」の
歪んだ人間になってしまったのではないか
と思ったのです。
本当は感情のまま生きたかったのに。
先生のいうことを聞けと言われて。
ルールを守っておりこうさんにして。
そうしなさいと言われたから。
それを無理して守り続けた。
それが偉いことだと「洗脳」されて。
感情で生きたら私の正義がそれを許さず。
正義に生きられる感情を持てず。
何をしてもどう生きても、どこかに歪み、
苛立ち、違和感などのギーが生まれるので
す。
今なら父親があの状況を洗脳と称した気持
ちがわからなくもないのです。
もっとも、思ったからと言って家族に対し
洗脳呼ばわりするような気持ちは微塵も
わかりたくもないですが。
死ねばいい。
ま、どんないい結果を生んだとは言え、
「影響」とか「教え」だってしくみは洗脳
みたいなものでしょうから。
どこから教育でどこから洗脳なんてのは、
具体的な境界線は引けないものです。
今更、私の自我が洗脳で作られたものだっ
たかも知れないと言われても、ソースカと
しか言えないってものです。
どんな作られ方をしようと私は私。
ギーギーしながらほどほどに生きて、大変
だったら死ぬしかないのです。
誰かを恨んだり誰かのせいにして本当の私
なんてものに変身できるものでもないので
す。
少し話がそれましたが、何気ない会話の
一幕が、自分を含む私の中の家族3人の
イメージを集約していたというお話です。
何気ないからこそ、特別な意識や他意の
ない本当の姿が見えたのではないでしょう
か。
それが私が長年築き上げてきたイメージと
重なるのなら、やはり私のイメージは合っ
ていたのでしょう。
過信したり思い入れがあったりすると良く
ないのですが、イメージ。
うまく利用すると他人を理解するツールと
して良い物と思います。
事例として挙げた私の家族へのイメージは
役立つかどうかわかりませんが…。
イメージは今も、拾い上げてもらうために
あなたを呼んでいますよ。