日本経済新聞の私の履歴書、名優松本幸四郎さんの語る1000回公演、あるべき姿と受け継がれるもの
以前にも取り上げさせていただいた松本幸四郎さんの日経新聞の「私の履歴書」ですが、間もなく最終回を迎えます。非常に含蓄のあるお話が、素晴らしい名文で展開されています。
このお話の中で、幸四郎さんは、1000回公演をミュージカルと歌舞伎それぞれで達成されていることに気づかされました。
もちろん、舞台ですので、回数を重ねるということはそれを見続けてくださるお客様がおられるわけです。
どうしてそんなに愛されているのかを考えさせてもらいました。
まずは、12月28日付「あるべき姿」の回からです。
「本当の狂気とはなんだ。夢に溺れて現実を見ないものも狂気かもしれない。また現実のみを追って夢を持たないものも狂気だ。しかし、人間として一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いをつけて、あるべき姿のために闘わないことだ」
ミュージカル「ラ・マンチャの男」の中のセリフである。
1969年(昭和44年)4月の帝劇初演以来、一昨年5月の27演まで、出演回数は1149回に達した。
このミュージカルに、私自身、ずいぶん助けられ、励まされた。そして、長い間勤めてきて、この役と自分が一体化してきたように思えてきた。
実際、初演以来四十数年の間にはいろいろなことがあった。
(中略)
母が亡くなった89年8月2日は、「ラ・マンチャの男」の大阪公演の初日だった。舞台がはねてから車に飛び乗り東京に帰る途中、母の死を聞いた。母の亡骸(なきがら)と対面し、翌日の飛行機第1便で大阪に戻り舞台を勤めた。母は「見果てぬ夢」の歌が大好きだった。その日から千秋楽まで、亡き母のために心を込めて「見果てぬ夢」を歌い続けた。母は65歳で逝ったが、その歌声は母の元に届いてくれたと信じている。
(後略)
あるがままの人生に折り合いをつけていないか、という問いは、深く深く心に響きます。
同じように感じる人も多いのではないでしょうか。
そして、あるべき姿のために闘っているか、というセリフ。
これは、厳しい叱責にも聞こえますが、実は、生命(いのち)があるなら、それを大事に使いなさいという大きな愛情の表現でもあるでしょう。
行動を起こすことが、自分を生かすことにつながることを改めて思い出させてくれました。
そして、12月29日付「勧進帳の弁慶」の回は、珠玉の回になりました。
一通の絵はがきが私の目を見開かせた。10年前のことで、差出人は沖縄の女子大生。歌舞伎好きの父親が東京までは見に行けないので、沖縄で「勧進帳」を上演してほしい、と書いてあった。
東京で働いておられたお父さんが、父白鸚の弁慶が大好きで必ず見に行かれていたが、沖縄に戻った後、数年前に病に倒れたということだった。
これを読みハッと思った。
本当に見たいとおっしゃるお客様のところへ出向いて行って、歌舞伎をお見せするのが歌舞伎役者の大事な勤めだと。こうして私の「勧進帳」行脚が始まった。便りから3年後の2004年(平成16年)11月、那覇市での歌舞伎公演が実現した。沖縄で初めての歌舞伎公演である。
地方を回って、祖父七世幸四郎の偉業が実感できた。祖父は生涯で「勧進帳」の弁慶を1600回以上も演じている。それも都会の大劇場ばかりでなく、地方の公会堂や学校の講堂、古い芝居小屋など様々な場所で演じた。映画館のスクリーンの前にベニヤ板を敷き、花道もないところで弁慶をやったこともあったという。
敗戦後の日本にあって、どれだけ人々を勇気づけたか、そうやって祖父は「勧進帳」を今日の人気狂言にしたのである。
晩年、祖父は心臓に病を抱えていた。ある時、花道を六方で引っ込むと、そこにうずくまってしばらく動けなかった。四天王で出ていた父(白鸚)は、体のことを考えて演じたらどうかといった。すると、祖父は「今日初めて、幸四郎の弁慶をご覧になるお客様もいらっしゃるんだ。そんなことはできない」と答えたという。
私は16歳で「勧進帳」の弁慶を初演してから、半世紀以上経た昨年の夏、茨城県土浦市での公演まで1046回演じた。この時点で、私の弁慶は全国47都道府県をすべて巡演した。
九代目幸四郎の襲名公演(1981年)での「勧進帳」のビデオを病床にあった父が見て、「ああ、オヤジ(七世幸四郎)の弁慶が残った」と言った。父はきっと祖父の弁慶を知らない私のどこかに祖父の面影を感じたのかもしれない。その父のひとことで私は、祖父、父、自分と芸の命をつなぐことができたと思った。
旅公演で三代の弁慶を見てくださった老齢のお客様が終演後、楽屋に訪ねてみえ、涙を流して私の手を握ってくれたこともあった。
(中略)
力みがあった若いころの弁慶に比べ、最近は弁慶が舞台の上でその一瞬一瞬を生き「今在る我でよし」と思えるようになってきた。
いつの日にか父のように「弁慶とはこういう人だったんだね」と言われる舞台を勤めてみたい。
このようにして、芝居も芸も受け継がれていくのですね。
一つの演目にかける役者としての思い、今日初めて自分の芝居を見てくださる方がいるということを祖父の残された言葉からしっかりと受け取るということも含めて、受け継ぐことの大切さを噛みしめることのできる内容でした。
そして、究極の姿は、役と自分が一体になること。
人生というものが、自分という役を演じるものだとすれば、一体化することの意味は本当に深いと感じました。
ありがとうございました。
(追伸)シリーズとして続いている顧客満足と従業員満足の話は次回以降となります。よろしくお願いします。
このお話の中で、幸四郎さんは、1000回公演をミュージカルと歌舞伎それぞれで達成されていることに気づかされました。
もちろん、舞台ですので、回数を重ねるということはそれを見続けてくださるお客様がおられるわけです。
どうしてそんなに愛されているのかを考えさせてもらいました。
まずは、12月28日付「あるべき姿」の回からです。
「本当の狂気とはなんだ。夢に溺れて現実を見ないものも狂気かもしれない。また現実のみを追って夢を持たないものも狂気だ。しかし、人間として一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いをつけて、あるべき姿のために闘わないことだ」
ミュージカル「ラ・マンチャの男」の中のセリフである。
1969年(昭和44年)4月の帝劇初演以来、一昨年5月の27演まで、出演回数は1149回に達した。
このミュージカルに、私自身、ずいぶん助けられ、励まされた。そして、長い間勤めてきて、この役と自分が一体化してきたように思えてきた。
実際、初演以来四十数年の間にはいろいろなことがあった。
(中略)
母が亡くなった89年8月2日は、「ラ・マンチャの男」の大阪公演の初日だった。舞台がはねてから車に飛び乗り東京に帰る途中、母の死を聞いた。母の亡骸(なきがら)と対面し、翌日の飛行機第1便で大阪に戻り舞台を勤めた。母は「見果てぬ夢」の歌が大好きだった。その日から千秋楽まで、亡き母のために心を込めて「見果てぬ夢」を歌い続けた。母は65歳で逝ったが、その歌声は母の元に届いてくれたと信じている。
(後略)
あるがままの人生に折り合いをつけていないか、という問いは、深く深く心に響きます。
同じように感じる人も多いのではないでしょうか。
そして、あるべき姿のために闘っているか、というセリフ。
これは、厳しい叱責にも聞こえますが、実は、生命(いのち)があるなら、それを大事に使いなさいという大きな愛情の表現でもあるでしょう。
行動を起こすことが、自分を生かすことにつながることを改めて思い出させてくれました。
そして、12月29日付「勧進帳の弁慶」の回は、珠玉の回になりました。
一通の絵はがきが私の目を見開かせた。10年前のことで、差出人は沖縄の女子大生。歌舞伎好きの父親が東京までは見に行けないので、沖縄で「勧進帳」を上演してほしい、と書いてあった。
東京で働いておられたお父さんが、父白鸚の弁慶が大好きで必ず見に行かれていたが、沖縄に戻った後、数年前に病に倒れたということだった。
これを読みハッと思った。
本当に見たいとおっしゃるお客様のところへ出向いて行って、歌舞伎をお見せするのが歌舞伎役者の大事な勤めだと。こうして私の「勧進帳」行脚が始まった。便りから3年後の2004年(平成16年)11月、那覇市での歌舞伎公演が実現した。沖縄で初めての歌舞伎公演である。
地方を回って、祖父七世幸四郎の偉業が実感できた。祖父は生涯で「勧進帳」の弁慶を1600回以上も演じている。それも都会の大劇場ばかりでなく、地方の公会堂や学校の講堂、古い芝居小屋など様々な場所で演じた。映画館のスクリーンの前にベニヤ板を敷き、花道もないところで弁慶をやったこともあったという。
敗戦後の日本にあって、どれだけ人々を勇気づけたか、そうやって祖父は「勧進帳」を今日の人気狂言にしたのである。
晩年、祖父は心臓に病を抱えていた。ある時、花道を六方で引っ込むと、そこにうずくまってしばらく動けなかった。四天王で出ていた父(白鸚)は、体のことを考えて演じたらどうかといった。すると、祖父は「今日初めて、幸四郎の弁慶をご覧になるお客様もいらっしゃるんだ。そんなことはできない」と答えたという。
私は16歳で「勧進帳」の弁慶を初演してから、半世紀以上経た昨年の夏、茨城県土浦市での公演まで1046回演じた。この時点で、私の弁慶は全国47都道府県をすべて巡演した。
九代目幸四郎の襲名公演(1981年)での「勧進帳」のビデオを病床にあった父が見て、「ああ、オヤジ(七世幸四郎)の弁慶が残った」と言った。父はきっと祖父の弁慶を知らない私のどこかに祖父の面影を感じたのかもしれない。その父のひとことで私は、祖父、父、自分と芸の命をつなぐことができたと思った。
旅公演で三代の弁慶を見てくださった老齢のお客様が終演後、楽屋に訪ねてみえ、涙を流して私の手を握ってくれたこともあった。
(中略)
力みがあった若いころの弁慶に比べ、最近は弁慶が舞台の上でその一瞬一瞬を生き「今在る我でよし」と思えるようになってきた。
いつの日にか父のように「弁慶とはこういう人だったんだね」と言われる舞台を勤めてみたい。
このようにして、芝居も芸も受け継がれていくのですね。
一つの演目にかける役者としての思い、今日初めて自分の芝居を見てくださる方がいるということを祖父の残された言葉からしっかりと受け取るということも含めて、受け継ぐことの大切さを噛みしめることのできる内容でした。
そして、究極の姿は、役と自分が一体になること。
人生というものが、自分という役を演じるものだとすれば、一体化することの意味は本当に深いと感じました。
ありがとうございました。
(追伸)シリーズとして続いている顧客満足と従業員満足の話は次回以降となります。よろしくお願いします。