博多に来た観光客を寺社町エリアへと導くウェルカムゲートが博多千年門だ。
周辺には多くの寺社が存在する。博多観光のスタート地点として、地元住民などによる「博多千年門期成会」の寄付により建設が行われ、2014年3月に完成した。
H.Pによると、中世博多の寺社様式の門は本柱2本、控え柱4本の四脚門。門構造は木造切妻本瓦葺、虹梁大瓶束様式。各部寸法は、幅8.32m、奥行8.40m、高さ8.17m、門の開口幅3.70m、本柱の円柱径0.52m、控え柱の角柱は0.42m角となっている。門扉の板材には太宰府天満宮寄贈の樹齢千年の「千年樟」が使われ、欄間には博多織の献上柄模様が刻まれている。表「独鈷模様 孝行縞」見返し「華皿模様 子持ち縞」の模様となっている。鬼瓦は大宰府で発掘された鬼瓦をモチーフとしている。
博多から大宰府政庁へ延びる官道には、江戸時代に「辻堂口門」と呼ばれる博多の入り口となる門が存在していた。「筑前名所図会」にも門の図が描かれている。現在の承天寺山門そばの公園にあったと推定されている。江戸時代は農村部と商人の町の境となっていた。 明治時代に入ってからも存在していたが、1889年に初代博多駅建設に伴い取り壊された。
門の名称は全国に募集し、約1,300点の応募の中から、多くの人から広く親しまれる名称として「博多千年門」、歴史的な名称として「辻堂口門」に決定した。
扁額「博多千年」の揮毫は菅原道真の子孫にあたる太宰府天満宮宮司、西高辻信良氏によるものだ。反対側の見返しにある「万年正續」は中国の禅寺・径山萬壽寺の住職・戒興が書いた。萬壽寺は承天寺を開いた聖一国師が修行した場所で、聖一国師が帰国後の1242年に萬壽寺が火災で焼失した際、博多より千枚の板を送ったとされている。
この承天寺通りは昭和40年代に承天寺境内を分断するように作られたが、再整備事業により承天寺と市道に一体感が生まれた。 博多千年門の建設と承天寺の整備が評価され、博多千年門周囲の景観は第26回(2014年度)のランドスケープ部門で福岡市都市景観賞を受賞した。 住民などで組織する博多千年門振興会が保存・活用に取り組んでおり、毎年年末にはすす払いを行っている。
承天寺通りは、車道を小川に、歩道をその川岸の遊歩道に見立てた造りとなって、承天寺の仏殿と方丈を結ぶ石畳は石橋をイメージしている。
承天寺(じょうてんじ)は、臨済宗東福寺派の寺院で、仁治3年(1242)、大宰少弐・武藤資頼が円爾(弁円、聖一国師)を招聘して創建。山号は、萬松山。
創建にあたっては謝国明ら宋商人が多く援助した。寛元元年(1243)官寺となった。
饂飩蕎麦発祥之地碑
宋から帰国した弁円は「水磨」と言う水車による製粉技術を持ち帰り、うどん・そばの作り方を日本に広めたことから承天寺はうどん・そば発祥の地とされている。
また、謝国明が大晦日、貧しい人々にそばをふるまったことが、年越しそばの始まりと言われている。
御饅頭所碑
弁円は托鉢の途中で親切にもてなしてくれた茶店の店主栗波吉右衛門に酒饅頭の作り方を伝授し「御饅頭所」の看板を与えた。
栗波吉右衛門は「虎屋」の屋号で酒饅頭を売り出した。弁円の「御饅頭所」の看板は現在東京の虎屋に保存されている。
満田弥三右衛門の碑
博多織は弁円と共に宋から帰国した満田弥三右衛門が持ち帰った唐織の技術が博多織の始まりとされている。江戸時代、幕府への献上品となった博多織の献上柄と言われる独鈷と華皿の模様は弁円の発案によるものと言われている。
洗濤庭
方丈(本堂)前の庭園は、方丈から見て手前に玄界灘を表現した白砂と奥に中国大陸を表現した緑がある枯山水の庭園。通常一般には公開されていない。
1241年に博多の町に疫病が流行した際、弁円が木製の施餓鬼棚に乗り担がれて、疫病退散を祈祷して聖水を撒いて町中を回ったことが博多祇園山笠の起源とされており、7月の博多祇園山笠の際には承天寺前に清道が設けられる。承天寺は博多祇園山笠発祥の地でもある。
博多は、府動くとの窓口でもあった。日本の発展は、博多なくしては、存在しない。玄界灘の荒波の向こうから文化が伝搬したことを常に意識しておきたい。
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