博多の旅(その11)博多旧市街~聖福寺 | 大根役者

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東長寺の裏に、御供所町(ごくしょまち)という通りがある。御供所町という名は珍しいが、貝原益軒の「筑前国風土記」によると、昔、筥崎八幡宮の御供え物をそろえたので、この名がついたと記述されている。

御供所町には、寺町と呼ばれるように寺院が集中している。

聖福寺は、日本の仏教史の中でも、重要な寺だ。山号を安国山、寺号を聖福至禅寺という。元久元年(1204)後鳥羽天皇(後上皇)より、日本で最初の禅寺である「扶桑最初禅窟」の勅額を賜った。

 

明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい)【永治元年4月20日(1141年5月27日)~健保3年7月5日(1215年8月1日)】により、創建された。栄西は、臨済宗の開祖で、建仁寺を開山した天台密教葉上流の流祖でもある。栄西は、中国より、茶の種子を持ち帰り、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られ、後に茶祖と称された。京都、栂尾高山寺の明恵上人に茶の種を分けてあげた話が伝えられている。茶の文化は、仏教とともに聖武天皇の時代に中国から伝えらえていたが、遣唐使の停止と共に廃れていた。栄西がいなかったら、大谷翔平の「おーいお茶」もなかったかもしれない。

 

寺伝の『栄西言上状』によると、建久6年(1195)に栄西は、宋(南宋)より帰国後、源頼朝より、八町四方(約900m四方)を賜り、博多居住の宋人が建立した百堂跡に寺院を創建した。元久元年(1204)に落成され、七堂伽藍が建立され、丈六釈迦弥勒弥陀三世仏が安置していたと伝えられる。塔頭も多い時には38院(現在は6院)を数えた。「扶桑最初禅窟」および「方丈」の宸翰(しんかん・天皇自筆の文書)を賜り、山門には、後鳥羽天皇の宸筆と伝わる「扶桑最初禅窟」の額が懸けられた。日本最初の本格的な禅寺であり、禅道場とされる。最盛期は、臨済宗の寺格である京都五山十刹制の第3位に列する名刹であり、丈六の釈迦・弥勒・阿弥陀三世仏を安置する七堂伽藍、および塔頭・子院を38ケ寺も擁する一大伽藍を誇る博多の中心的寺院だった。境内の中に寺中町(関内と呼ばれている)が形成され、今にも残る博多の地名の、普賢堂、中小路、魚町、天屋、蓮池、西門などは当時の寺内町の町割りがそのまま残ものだ。

勅使門

通常は、開けられることはない。十六弁の菊の御紋章が掲げられている勅使門だ。建設された時期は明らかではないが、文政10丁亥年(1827)に修築したの棟札が存在しており、1700年初頭以前のものと思われる。平成17年に屋根瓦が葺き替えられた。

総門

天正17年(1589)中興後、黒田長政が筑前国に入り福岡城を造った為、名島城にあったものを移築したと言い伝えられている。足利紫山書の「安國山」の扁額が掛けられている。

方丈池

総門より境内に入ると、左側に方丈池が造られている。勅使門と山門の間に位置している。

通常、その名の通り、四角い池が多い中、瓢箪の形をしていることから「瓢箪池」と呼ばれている。正式名称は無染池だ。
平成22年に京都の著名な作庭家・北山安夫により、大改修がなされた。

山門

江戸時代初期に、志摩桜井神社の観音堂を移築し、楼上に佐田仏師の十八羅漢像を祀った。慶応2年に焼失し、明治44年、128代東瀛老師の時に再建された。

江戸時代初期に、志摩桜井神社の観音堂を移築し、楼上に佐田仏師の十八羅漢像を祀った。慶応2年に焼失し、明治44年、128代東瀛老師の時に再建された。

 

仏殿

天正17年(1589)耳峯玄熊(にほうげんゆう)により中興。寛文13年(1673)に改修された。正面の丸窓は栄西が修業した南宋の寺院に見られるものが再現されている。平成26年の800年遠諱大法要のための大増築が行われ、丈六三世仏(釈迦、弥勒、弥陀)が再現、安置された。

 

庫裏

天正17年(1589)中興の後、120世鶴州かくしゅう禅壽が改築し、明治42年(1909)128世東瀛老師の時改築を行った。
昭和43年、131世博道老師の時に大改築をした。

 

方丈

耳峯玄熊により、再建。慶長6年(1601)黒田如水・長政親子が肥前名護屋城の旧館を移築した。現存の方丈は仙厓和尚の時代、黒田藩に修復を要請したが、存命中にかなわず、弘化2年(1845)に再建・修理が実現した。方丈の内回廊の中央に後鳥羽上皇の宸「方丈」が掲げられている。聖観音菩薩像が祀られている。

経蔵

天和2年(1682)115世萬水性源和尚が造り、一切蔵経を納めた。
4年後、貞亨3年(1686)116世丹厳義誠和尚が改築をしている。正面には張九成の書「龍宮海咸」の額が懸かっている。経蔵及び輪蔵は、福岡県の有形民俗文化財に指定されている。

鐘楼

天正17年(1589)110世耳峰玄熊造築の後、宝暦9年(1759)、122世盤谷紹適が改築した。
国指定重要文化財銅鐘(朝鮮鐘)が昭和51年までかけられていた。今の鐘は黄鐘調の梵鐘。平成15年に屋根瓦を葺き替えた。

日月庭

鹿児島寿蔵氏の歌碑を造作し、平成28年12月8日に開眼したことに始まる。この歌は、昭和40年歌会始め、お題「鳥」の選者として「六月の残雪ふかき温泉嶽を越えがてにをれば駒鳥のこゑ」と詠まれている。その時、聖福寺130代戒応老師は、寿蔵氏のすすめにより、その歌会始めを陪聴した事を記念して、この歌を選び、石に刻み歌碑とした。
令和2年に123代僊厓禅師の〇△□を基に境内にある石を組み合わせ、石庭中を歩いてもよいという事を念頭に造作しました。

栄西による創建以来、現在に至るまで、地理的も歴史的にも重要な禅寺である聖福寺は日本の歴史の中枢にも位置していた。

子院・直指庵には九州探題が置かれ、外交交渉の窓口として外交僧を輩出した。室町時代末期の永禄6年(1563)には、戦乱により、伽藍が焼失したが、永禄11年、元亀元年(1570)から 再興した。天正2年 (1574) 伽藍がことごとく消失し荒廃した。天正15年(1587)、豊臣秀吉による太閤町割によって境内は四町四方に縮小されたが、領主・小早川隆景が寺領300石を寄進、隆景庇護のもと、玄熊が仏殿や総門などの諸堂宇が再建された。隆景寄進の銘がある朝鮮鐘や、「永禄の変で散逸したが修補した」旨の玄熊の奥書のある「聖福寺絵図」や寺内町の「借家牒」などが現存している。秀吉や長政をはじめ、幾多の武将が寺領を寄進している。

太平洋戦争終戦後、福岡引揚援護局により、164名の引揚孤児の世話がなされた「聖福寮」が境内に設けられている。

 

聖福寺を出て、御供所町を歩いた。

 

寺町という別名があるほど、多くの寺院が立ち並んでいるが、この町は、かって、桶屋町と呼ばれ、桶屋が多く立ち並んでいた。

酒を送るための桶は斗合樽として、重宝された。空襲の被害を受けなかったため、かっての博多が残されている町だ。【HIS】旅行プログラム

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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