博多の旅(その10)博多旧市街~東長寺 | 大根役者

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櫛田神社は神仏分離前は東長寺の管理下にあった神社だということは述べた。大博通りに面して、櫛田神社参道向かい側に位置している。かっては、大博通りから、櫛田神社までは、東長寺境内だった。

博多にある東長寺は平安時代という時代にとっても、重要な寺院だった。平安遷都は、平城京における朝廷の権威失墜を取り戻す施策だった。道元に見るように、仏教の僧侶が政治に介入することを根本から、断つための施策でもあり、仏教伝来後、初の宗教戦争でもあった。南都六宗と言われる朝廷から、手厚く保護された仏教の僧侶・寺院が腐敗したことをただす目的でもあり、平安京では、平安二宗と呼ばれる新しい仏教、天台宗、真言宗を朝廷は、手厚く保護した。

東長寺は、真言宗の寺院である。正式名称は、東長密寺であり、山号は南岳山という。九州における真言宗九州教団の拠点寺院

(別格本山)だ。

 

『筑前国続風土記』によると、弘法大師・空海は、唐での密教修行を終え、大同元年(806)10月に博多に帰着し、翌年4月末まで博多に滞在したと記されている。滞在のおりに、密教東漸(密教が東へ広まること)を祈願し、本尊とし不動明王像を空海自らが彫り、一伽藍を建立したのが東長寺の始まりとされる。寺院名の東長密寺にも、「密教が東に長く伝わるように」と祈誓し命名され、空海が創建した日本最古の寺とされる。

初期の伽藍は、博多の海辺の勤行町(現呉服町)にあり、大伽藍を有し寺勢は盛んだったとされ、空海が自身の像を彫り大師堂に安置し、多聞天、持国天像も空海が自作したと記されている。

後醍醐天皇の討幕闘争である元弘の乱による兵火で、東長寺も焼け落ちたが、三年後には再興した。しかし、その規模は、当初の半分の規模にも達しなかった。

永禄・天正年間の九州征伐の折の兵火で、荒廃するが、福岡藩2代藩主・黒田忠之が、真言宗に帰依し、大壇越となり、現在地に鐘楼・護摩堂・大日堂・本堂などを建立、寺領200石を寄進して再興し、菩提所とした3代藩主・黒田光之も寺領100石と山林15万坪を寄進した。

 

藩祖・黒田孝高、初代藩主・長政など黒田家の菩提寺は、崇福寺だが、東長寺が准菩提寺となっている。

 

山門

本堂

本尊は木造観音立像(秘仏・平安時代中期・国宝)

弘法大師坐像 - 本堂内、千手観音像の向かって右の厨子内に安置。秘仏。

不動明王立像 - 本堂内、千手観音像の向かって左に安置。

大仏殿に福岡大仏と呼ばれる木造釈迦如来坐像が安置されている。高さ10.8m、光背の高さ16.1m重さ30tの檜造り。平成4年に完成した。10.8mは人間の煩悩の数百八にちなんでいる。木造坐像としては日本最大級を誇る。光背の後方壁面には5000もの小仏がある。大仏台座周囲に真っ暗な通路があり「地獄極楽巡り(戒壇廻り)」ができる。長野善光寺のお戒壇めぐりよりも規模は小さい。

六角堂 

天保13年(1842)に建立。博多で薬や油を扱っていた豊後屋栄蔵が、各地の商人より浄財を募り、名古屋の宮大工である第八代・伊藤平左衛門を招いて建立し、寄進したもの。覆屋と回転式の仏龕(ぶつがん)からなる仏殿で、福岡市指定文化財。通常、扉が閉まっているが、毎月28日に開帳される。

五重塔は 、平成23年)5月に完成。総檜造。高さ25.9メートル。釘を使用しない伝統工法で建てられている。内部は、非公開で、四季の風物や仏像を描いた日本画が飾られている。日本画家・鳥山玲によるもの。5層の最上部に取り付けられた相輪の伏鉢には、弘法大師・空海が持ち帰ったといわれる仏舎利が納められている。本尊は大日如来。

鐘楼

大師堂

手水舎

黒田家墓所

黒田忠之の墓

黒田忠之は、加賀騒動、伊達騒動とともに、江戸時代三大お家騒動と呼ばれる黒田騒動の当事者だ。

黒田長政と継室・栄姫(徳川家康の養女)の嫡男として生まれ、長政とともに、駿府城で、徳川家康への拝謁が許されている。大坂冬の陣では、江戸城留守居を命じられた長政の代わりに出陣している。家康は、黒田長政と黒田家を譜代の大名のように信頼していた。藩祖・黒田官兵衛がいなければ、秀吉の天下はなく、秀吉と自身の差を人たらしの極意の差だとも理解していたのだが、

秀忠以降は、家康後、外様大名の反撃を恐れていた。

 

元和9年(1623)家光将軍宣下の先役を命じられた長政と京都へ同行した際、長政が報恩寺にて病により死去し、家督を継ぐことになり、忠之と名を改めた。当初は二代将軍秀忠の変諱受け、父の名とともに、忠長・忠政と名乗っていたが、以後、徳川将軍家は、福岡藩の歴代藩主・嫡子に松平の名字と将軍の偏諱を授与していく。石高も43万石となった。

忠之は大藩の御曹司として、生まれたため、性格も奔放でわがままであったという。長政は、この性格は、藩主に向かないと考え、三男・長興に藩主を譲る考えでいた。栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。600石以上2千石未満の藩士の嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。大膳は忠之に諌書を送った。これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。外見も派手で、藩の財力でご禁制の大型船舶「鳳凰丸」などを建造したりしていた。自らの側近集団を組織し、父・長政時代からの重臣たちと対立し、所領減封や改易などの強硬策をとった。

 

寛永9年(1632)、栗山大膳は、幕府に「黒田家、幕府に謀反の疑いあり」と訴えた。黒田家は改易の危機に立たされた。これが、黒田騒動である。3代将軍・徳川家光は自ら裁定を下し、栗山の訴えは「精神的に異常であり藩主への逆恨み」と裁断し、幕命により、忠之側近の倉八十太夫を高野山へ送り、栗山は、盛岡藩南部家へ預けられ追放された。藩主黒田家はお咎めなしであったが、このこともあり、長政と懇意の仲であった老中・安藤直次、幕府古老・成瀬正虎らは、連署で忠之へ書状が送られ、「御父上のように年寄どもとご相談の上」藩政を進めるように促された。その結果、忠之の側近政治は弱められ、福岡藩の政治は元の「重臣を中心とした合議制」色が強くなった。

新しい時代に生きる人たちは、古い時代を否定しがちだ。ただ、自身がたどる時の流れを意識すれば、自身も変化する。に家康・秀吉を見続けてきた官兵衛、長政の時代をようやく忠之は伝承し、名君に生まれ変わっていく。

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その後は、島原の乱での軍功、長崎警護の幕命等で、福岡藩は、密接な関係を築いていく。

承応3年(1654)2月12日、福岡城で満51歳で死去した

忠之の墓前には、この時に殉死した尾上二左衛門勝義(陽桃院殿長壽正仙)、深見五郎右衛門重昌(實相院殿一如真空)、長濱九郎右衛門重勝(修徳院殿道壽宗清)、竹田助之進義成(春嶺院殿花心淨蓮)、田中五郎兵衛栄清(龍華院殿春庭永喜)の5基の五輪塔の墓碑が並んでいる。またその傍らに、この時同様に殉死した明厳院(山伏秀栄)の墓碑も建っている。

黒田光之の墓

黒田治高の墓

東長寺では、弘法大師・空海の時代から、現在に至るまで、綿々と続く時の流れが、存在する。商人の街・博多と城下町・福岡の融合を意識しながら、この場所からスタートする博多の旅も楽しい。