博多の旅(その6)博多旧市街~櫛田神社(その2)博多祇園山笠 | 大根役者

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博多祇園山笠は、博多の総鎮守・櫛田神社として知られるに山笠と呼ばれる作り山を奉納する神事で、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

祭礼期間は毎年、7月1日から15日に定められている。最終日の未明には関係者が参列して櫛田神社祇園例大祭が執り行われる。近隣の町で構成される「流(ながれ)」ごとに山笠を奉納した後(櫛田入り)、山笠を所定の順路を競って巡行する「追い山」が行われる。

 

全国各地で、この時期に祇園祭が開催されている。

 

祇園信仰は、疫病を鎮める目的で平安時代に始まり、京都の八坂神社を中心に広まった。この信仰は、疫病や災害から人々を守る牛頭天王への崇拝がある。牛頭天王は、祇園精舎の守護神で、薬師如来の化身と伝えている。のちには素戔嗚尊と習合されて尊崇されるようになる。

祇園信仰は、日本各地で独自の形式を取りながら広がり、各地域の文化や伝統に影響を与えてきた。博多祇園山笠は、祇園信仰が地域固有の祭りに進化した例で、各地の祇園祭は、この信仰を基にしているものの、その形式や祀られる神々には地域ごとの特徴がある。それこそが、日本の祭り文化なのだ。

 

祇園山笠は、福岡市博多区・博多郡の櫛田神社氏子による奉納神事であるとともに、伝統的町内行事として、綿々と受け継がれてきた文化でもある。博多という街の在り様や祇園山笠が、全国的に知られるようになるのは、1976年から1983年まで、連載された「博多っ子純情」からだろう。同時期に天神のライブ喫茶「照和」から巣立ったミュージシャンがフォーク、ロックの世界でムーブメントを起こし、日本のリバプールと呼ばれていた。博多という街が全国になり、文化が、全国に知られるようになっていた。「祇園山笠の期間中はキュウリを食べない」とか「朝はおきゅうとを食べる」と言った博多の文化は「博多っ子純情」から学んだ。

「博多祇園山笠」は、山笠と略称で呼ばれる。祭礼そのものを指す「山笠」と区別するため、神輿に相当する山笠を「ヤマ」と称することがある。ヤマを担いで市内を回ることを山笠を「舁く(かく)」、担ぐ人を「舁き手(かきて)」と呼ぶ。

 

秀吉による太閤町割の後、江戸時代の前期には前述の「流(ながれ)」と呼ばれる複数の町で構成する町組織が形成され、当番町を決め、その責任によって山笠行事一切の運営を取り仕切るとともに、流各町には年寄、中年、若手という年齢組織が組み込まれ、町組織と祭礼組織が一体化して運営されてきた。

特に最終日には山笠を建てた流ごとに櫛田神社に山笠番付(一巡するまで毎年順位が繰り上がる輪番制)の順に山笠を奉納し(櫛田入り)、その後、所定の順路を競って舁き運ぶ「追い山」が行われる。この追い山の予行演習として3日前の午後に「追い山馴らし」が行われる。戦後の一時期、山笠を建てた流は13流に増えたが現在の「流」は恵比寿流・大黒流・土居流・東流・西流・中州流・千代流の7流である(福神流は山笠を建てない)。東流のみ、当番町を持たず流全体で運営する。当事者として祭りに参加できるのは、原則として地域住民および地域出身者のみである。この時期に、全国各地から博多に帰ることを出身者は楽しみにしている。この文化が、郷土愛を生む。郷土愛が希薄な広島人としては、うらやましい。祭りは文化だ。広島にも江戸時代に途絶えた祭り文化があったはずだ。

 

山笠発祥とされる鎌倉時代の山笠の姿は明確でないが、山笠の規模は幕末から明治初期に最盛期となり、高さは16メートル弱にまで、達した。博多の街も都市の発展と共に、電信線が張られ、高い山笠が通行ふぇき亡くなる。低い山笠も製作されたが、「にぎりめしやま」と揶揄され、博多っ子気質にはそぐわなかった。明治24年、山笠の高さを回復するため募金と陳情が行われ、逓信大臣の許可を得て電信柱21本を全長15m弱のものと取り換えた。明治30年、電灯線、電話線が設置されると櫛田神社境内に観賞用の山笠一本を建て山舁きは行われなかった。明治31年には、福岡県知事が山笠が電線を切断する恐れがあるため、山笠行事の中止を提議した。文化を二の次にする明治というとんでもない時代だった。従来の高い岩山笠は飾り置く「飾り山」とし、運行は3メートル程の「舁き山」を用いることとなった。

これより前の江戸時代には路上に留め置いた状態の山笠を「据山(すえやま)」、舁き廻して運行されている状態の山笠を「舁山(かきやま)」と呼んでいた。しかし、明治30年代には観賞用の山笠を「据え山」のちに「飾り山」、山舁き用の山笠を「舁き山」と呼ぶようになった。明治43年には路面電車が開通して架線より高い山笠の運行が不可能となり「飾り山」と「舁き山」の分化は決定的となった。昭和54年に市内の路面電車が全廃されると舁き山の高さは徐々に緩和され、現在は4.5メートルまでとなっている。

飾り山笠は7月1日から7月15日まで公開され、追い山当日の0時になると一部を除き「山崩し」「山解き」などと称し、解体される。

山笠人形や飾り物は伝統的に「福を招く縁起物」として、祭りが終わると争うように剥がされ、山笠台を残して取り壊された。

現在では、祭礼日以外でも観光資源として、常設展示がなされている。櫛田神社境内にも飾られている。祭礼日に繰り出す神輿も展示されている。

 

 

舁き山笠も15日早朝の追い山を終え各町内へ戻った後、同様に解体されていたが、通年展示や安全性への配慮から取り止める流が相次ぎ、伝統的な「山崩し」で舁き山笠を解体している流は、現在では西流のみとなっている。

山笠を巡行する際の掛け声「おっしょい」が日本の音百選に選ばれている。「山・鉾・屋台行事」として、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。

 

山笠期間中は行事参加者の間ではキュウリを食べることが御法度とされているが、「キュウリの切り口が櫛田神社の祇園宮の神紋木瓜の花と似ているからとされているが、あくまでも、風習であり、歴史的根拠はない。現在のSDGsの風潮からは女人禁制の祭りに眉を顰める人もいるだろうが、守るべき日本の文化である。旧来の流は子供山笠も含めて舁き手は男性のみである。しきたりとして、女性は舁き手の詰め所に入れず、かつては舁き手の詰め所の入口に「不浄の者立入るべからず」と立札が立てられている。平成15年に立札の設置は中止された。

 

浅草の三社祭が終わり、全国から、祇園祭の祭りばやしが聞こえる季節になってくる。今年は、博多に行きたいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

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