博多の旅(その7)博多旧市街~櫛田神社(その3)境内・摂末社 | 大根役者

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櫛田神社境内にイチョウの大木が見える。神木である。

大正7年の本樹保存記念碑に樹齢1000年以上と記載されているが、正確なところは不明である。ただ、現在の直径が190cmほどであるから、1000年以下と推測されるが、樹齢600年は超している。樹皮は厚く太枝の分岐部では樹皮にマサキ、ネズミモチ、キズタなどの低木と蔓が鳥の運搬によって種子が落ち生長している。老木の風格のある名木だ。福岡県の天然記念物に指定されている。

 

博多祝い歌にも「さても見事な櫛田の銀杏、枝も栄ゆりゃ葉も繁る」と謡い囃されている。

イチョウは雌雄異株であるが、このイチョウは雌性で、秋には、沢山の銀杏が収穫できる。

「櫛田の銀杏」の説明板と並記してあるのが「蒙古軍の碇石」だ。

蒙古の軍船が碇として使用したとされる石。碇石2点が櫛田神社の山門南、銀杏根元にある。南側の1点は花崗岩製で、長さ226cm、推定重量230kg。御供所町の地下16尺から出土したといわれている。東側の1点は砂岩製で、長さ252.5cm、推定重量350kg。出土地は不明。福岡県指定有形文化財に指定されている。

港にある神社でよく見かける力石が置かれている。福岡県指定民俗文化財だ。海の誓うの神社では、漁師たちが力比べをするために持ち上げた力石だが、櫛田神社にあるものは、背景が異なる。

力石は、占いのために石を持ち上げる「石占」が起源という説もあるが、江戸時代には力試しとして使われていたという記録が残る。櫛田神社には文政13年(1830)の銘をもつ力石をはじめ、博多の船問屋が奉納したもの等が伝えられている。博多にはかつて相撲を職業とする人たちがいたとされ、各地に興業に出向いていたとされる。力石は博多での相撲の人気ぶりや、商業の繁栄ぶりを伝えるものといえよう。なお、近年の横綱によっても力石が奉納されており、福岡県指定有形文化財と共に置かれている。

花本大神(はなもとのおおかみ)句碑


「花本大神」とは、松尾芭蕉に下賜された神号「花本大明神」のことである。(神号は天保十四年(1843)芭蕉百五十回忌にあたり、真正芭蕉風を唱える天保三大俳人の一人田川鳳朗が京二条家に請願し下賜されている)
博多では、江戸中期から明治にかけて蕉風俳諧が広く好まれ、芭蕉二百回忌を前に、追善の誠を表し、有志によってこの句碑が明治26年10月に建立されている。
尚裏面には「蓬莱に聞ばや 伊勢の初便」と刻まれている。

博多べい

博多の町は大内氏の没後、大友氏と毛利氏、大友氏と島津氏による合戦で荒廃を極めた。天正15年(1587)に九州平定を成し遂げた豊臣秀吉は、石田三成や黒田官兵衛に荒廃した博多の町の復興を命じた。復興にあたっては、博多商人の協力を得て、「太閤町割り」と呼ばれる都市整備を2回に分けて行った。

郷土再興を祈願して、焼け石や焼け瓦などが土の中に厚く塗り込められた博多べいと呼ばれる土塀が復興した街に長く連なっていた。櫛田神社の「博多べい」は博多三商傑の一人嶋井宗室の屋敷で三百八十余年の風雪に耐えた最後の「博多ベい」を移築再建したものだ。

山笠の衣装を着た小便小僧像があった。

博多べいから、本殿裏に鎮座する境内社を参拝する。

石堂神社・天満宮・今熊野神社・竈門神社・皇大神宮・金刀比羅神社・諏訪神社・松尾神社

 

 

石堂宮

注連懸稲荷神社

注連懸稲荷神社の隣に茶室がある。

薦田庵(こもだあん)という南坊流の由緒ある茶室だ。入り口の扁額に「自偏」という文字があった。

中国、宋の時代の陶淵明の詩文「心遠地自偏」心遠ければ地自ずから偏なり(心が世間から遠く離れているから、住んでいる土地も自然に人少ない趣きに変わるのだ)という意味だ。

 

博多総鎮守・櫛田神社は博多の人々の心の拠り所でもある。多くの内外の観光客でにぎわっているが、大陸に一番近い場所で、

太古より、交易、防衛の重要な要衝である博多という街のロケーションを理解し、独自に発展した博多文化を理解してほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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