5月の「どんたく」から始まり、7月の「祇園山笠」9月の「放生会」に続く祭りが、博多三大祭りと呼ばれている。夏は、博多の季節だ。
櫛田神社を訪ねた。
社伝によると天平宝宇元年(757)、松阪にあった櫛田神社を勧請したことに始まるとされる。
松坂の櫛田神社の祭神の大幡主大神が天照大神に仕える一族の神であったことから、天照皇大神も一緒に勧請されたと伝えられている。天慶4年(941)、小野好古が藤原純友の乱を鎮めるために京都の八坂神社に祈願し、平定した後に当社に素盞嗚神を勧請したと伝えられているが、平安時代末期、平清盛が所領の肥前国神崎(現佐賀県神埼市)の櫛田宮を、日宋貿易の拠点とした博多に勧請したという説が最有力とされている。
櫛田神社の宮司らが編纂し、昭和40年、文部省にに提出した『博多山笠記録』や昭和54年に福岡市が発行した『福岡の歴史』で櫛田宮の分社とされている。
表参道から楼門へ向かったが、あまりにも参拝客が多いので、北神門に進んだ。
八咫烏の像が見えた。
明治27・28の役(日清戦争)の出征記念碑だ。櫛田神社は江戸時代までは、東長寺の末寺・神護寺の管理下にあったが、明治元年の神仏分離令で「博多総鎮守櫛田神社」となった。明治24年に県社に列した。
北神門が見えてくる。
標柱には、霊徳照乾坤と刻まれている。天地に霊徳を行き届かせる神だ。
櫛田神社の神額
狛犬は岡山で見かける備前焼のようだ。
御神と書かれた大提灯が吊り下げられている。雷門のようだ。
神門の柱にある彫刻は犬と蛙と蘇鉄。神使の動物だ。犬は安産。蛙は道中の無事をつかさどる神の神使だ。蘇鉄はキリスト教伝来とともに日本に渡来した南西諸島の植物だ。奉納することは財力を示す商人の象徴となっていた。神門の由来が示されていないが、博多商人が法のしたものだろう。
昭徳燈籠
徳を照らす燈籠だ。
改めて、楼門から、お参りする。
楼門の神額は「櫛田宮」となっている。地元の人達からは「お櫛田さん」と呼ばれている。
楼門には「稜威」と書かれた扁額が掲げられている。「いつ」と読む。天皇の御威光を表す言葉だ。
楼門前の狛犬は招魂社系。
「櫛磐間戸命」(左大臣)
「豊磐間戸命」(右大臣)
楼門の天井に干支恵方盤が吊り下げられている。毎年大晦日に新しい年の恵方を示すように矢印が回転されます。矢印は今年の恵方・東北東に矢印が向いている。
大幡主命(櫛田宮)の紋
櫛田神社には三神が祀られているが、扁額のとおり、この楼門は櫛田宮のものだ。
境内から楼門を見る。「博多総鎮守」の扁額が掲げられている。
手水舎
境内を歩くのも楽しいのだが、まずは、本殿へ歩を進める。
参道の手水舎の前に座牛が鎮座する。
神馬が参道右側に鎮座している。
南神門
通常、古社では、狛犬と獅子の対がよく見かけるスタイルなのだが、
南神門前にある狛犬が阿吽とも、狛犬であることが面白い。
中神門へ進む。
中神門前の狛犬は、再興石造狗犬と台座に刻まれていた。元は、ブロンズだったのだろう。戦時中の金属供出で、なくなった狛犬が斎行されたものだろう。狛犬は獅子像だ。
中神門から拝殿へ進む。
拝殿に風神・雷神の木彫彫刻がある。案内板によると
「上、拝殿破風の左右に掲げられている風神雷神の木彫りは数多い当社彫刻類の中でユーモアあふれるカラッとした博多っ子の気質を表わしているといわれます。博多で暴風雨を起さんと雷神が太鼓をたたいて向こうの風神を誘っているが風神はイヤダーと言ってアッカンベをして遁走している。」
本殿へ進む。
正殿に大幡主大神を正殿に、左殿に天照皇大神、右殿に素盞嗚大神が祀られている。戦国時代に荒廃したが、天正15年(1587)、豊臣秀吉によって博多が復興されるときに現在の社殿が造営された。
須賀大神(祇園神)の神紋の木瓜の花がきゅうりの輪切りに似てるので、山笠期間中は氏子はキュウリを食べない。
神殿には、極彩色の狛犬が鎮座している。
浅草の人が三社祭のために一年を過ごすと言うように、博多の人たちは、祇園山笠のために一年を過ごしている。僕は、まだ、山笠の季節に博多を訪れたことはないのだが、いつかは、博多っ子の人生である祇園山笠の季節に再訪したいと思っている。