博多の旅(その2)~黒田長政の夢・福岡城 | 大根役者

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大濠公園は福岡城の外堀で、入江だった草香江が元となったその名の通り、大きな池が庭園の中核をなしている。池に点在する島がそれぞれ、橋でつながっている。周囲は、ほぼ2km。ジョギングやサイクリングコースとしても市民に親しまれている公園だ。水との調和を基軸にする公園を街の中心部に位置付けることは基本だ。憩うことに思想はいらない。

筑前福岡藩初代藩主・黒田長政が、入江の一部を埋め立て、天神から那珂川にかけて、掘られた肥前掘とともに外堀として城の守りのために造られた外堀だ。明治維新により、福岡城が廃城となり、肥前堀が埋め立てられ、堀の水が循環しなくなり、環境悪化が起こり、埋め立て論争が始まった。著名人による、埋め立て反対の声もあがり、大正14年、東大農学部教授・本多静六による

「福岡県経営東公園西公園大堀公園改良計画」に基づき、昭和4年に公園として開園した。

福岡城本丸跡の舞鶴公園とともに福岡市民が誇る公園となっている。

 

黒田官兵衛(如水)がいなければ、秀吉の天下はなかった。黒田如水・長政親子が実際の天下を牛耳った存在だとされている。朝鮮半島における明との戦いが秀吉の天下を終わらせ、反豊臣勢力が台頭し、豊臣家滅亡につながるとされているが、朝鮮半島における明との戦いで、加藤清正、小西行長が苦戦する中、黒田長政は、秀吉の死で、撤退命令が出るまで、数々の武功をあげた。加藤清正で知られる虎退治も黒田長政家臣のエピソードが史実とされている。

秀吉後、天下に一番近かったのは、黒田長政だとされるが、これは、長政の遺言に基づいている。

 

「自分と父は、関が原の戦いで天下を取ろうと思えば取れたが、父はほぼ九州を支配下においており、自分がいなければ徳川家は関ヶ原で勝てたかどうかわからない。徳川家に天下を取らせることが良いことだと思ったために、この程度で甘んじたのだ。家康公もそのことがよくお分かりだったので、実質的に100万石の領地を与えられ、将軍家の姫君が降嫁し、子々孫々まで罪を免除されたのだ」

 

調略に長けた黒田家の伝統が、藩政時代から近代・現代へと綿々と受け継がれる名家の柱となっている。関ヶ原一の軍功をあげた福島正則を東軍に入れたのも長政だったが、福島正則には、時代を見る目がなかったため、豊臣譜代の外様大名としてのその後に雲泥の差がついてしまった。

 

福岡城の名は、黒田家ゆかりの備前国福岡に由来する。備前福岡には、以前、訪れた。

 

 

慶長5年(1600)、黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により、豊前国中津16万石から、筑前一国52万三千で、筑前名島に入封した。便宜上から名島城を廃し、福崎丘陵を新城地に選定した。城地となった警固村福崎は荒れ地で、古くから商人の町として栄えていた博多の西側に川を挟んで位置する慶長6年には築城が開始され、慶長12年に竣工した。

福島正則改易の因になる城改修は、幕府の許可のいる事業だった。黒田親子は、城を新設し、改修をしたわけではない。幕末には幕府の各藩への影響力も薄れていたのだろう。

江戸期には歴代の藩主により二の丸御殿や西の丸御殿の増築など数度の改修が行われ、特に幕末の嘉永・万延年間に11代藩主、黒田長溥藩主・黒田長薄により大改修が行われた。

名島門から入った。

外国人観光客ばかりだ。

名島門は名島城の脇門として使われていた門で、長政が福岡城に居城を移す際に黒田二十四騎の一人である林直利に下賜され、屋敷の門として使用されていた。明治中期に長崎へ移築されかけたところを地元の代議士であった平岡浩太郎により、買い戻され、天神にあった平岡の自宅の門として使用された。昭和36年、富士ビルの建設に伴い現在地に移された。(福岡市文化財)

天守台までは、桜並木沿いに進んだ。

現在は、天守閣はないが、幻の天守閣を夜空に浮かび上がらせる企画がなされている。

松の木坂御門跡

仮設の天守閣はライトアップ用に建てられたものだ。

武具櫓跡

福岡城には大・中・小と3つの天守台がある。

正保3年(1646)に描かれた福岡城の絵図「福博惣絵図」には天守閣はなく、孝高・長政親子は幕府に遠慮して天守閣を建てなかったと考えられていたが、近年になり天守閣の存在をうかがわせる文書が発見され、存在説が浮上した。実際には造ったが十数年で取り壊したのではないかともいわれているが、天守閣の存在は未だはっきりしていない。

天守台からは博多の町が一望できる。

小天守台跡

中天守台跡

 

水の手跡

東御門跡

二の丸に入るための主要な門の跡。周りの石垣には藩主の権威の象徴と言われている鏡石がある。

表御門跡

大正7年に黒田家の菩提寺である崇福寺に移築され、現在も同寺の山門として使用されている。

旧母里太兵衛邸長屋門

黒田二十四騎の一人、母里太兵衛の屋敷に構えていた門。昭和40年に現在地に移築。

御鷹屋敷跡

下之橋御門

城の西側にあり、東側の上之橋御門とともに、城内に入るための門として使用された。平成12年8月に不審火で半焼したが、平成20年11月に復元された。焼失前は一層だったが、現在の二層の姿が本来のものと言われている。

福岡城址主要部分は国の史跡に指定されている。

この場所には、1871年に福岡県庁がおかれ、天神に県庁が移転した後に旧陸軍第12師団歩兵第24連隊駐屯地が置かれた。戦後、平和台野球場などの平和台総合運動場が作られた。

近年、平和台野球場およびその周辺から鴻臚館跡が発見され、周辺を歴史公園として整備する「舞鶴城址将来構想」(セントラルパーク構想)に基づく整備計画が進行している。舞鶴公園と大濠公園にはさまれた地区には、個人住宅もあるので、全域公園化に時間がかかっている。

関ヶ原の戦い時に、筑前を治めていたのは小早川隆景の養子・秀秋だった。関ヶ原後、秀秋は岡山に移封することになり、筑前は黒田親子に与えられた。長政の東軍における活躍。孝高の九州で西軍に味方する大名を倒す働きに家康が報いたのだ。幕末まで黒田家は、筑前を治めることになり、明治以降も侯爵として、名家を維持していくことになる。

黒田親子は領地の国境線上に「黒田六端城」と呼ばれる6つの支城を築いて、防御を固めた。福岡城は九州最大級の城で、熊本城と並ぶ城だったが、熊本城を築いた加藤清正が福岡城を「熊本城は3,4日で落ちるが、福岡城は30,40日は落ちない」と評した。

関ヶ原一の軍功を挙げた福島正則と黒田長政、加藤清正に対する徳川秀忠の処遇の差を見ると、秀忠は、九州の二人よりも福島正則を恐れていたように思えるのだが、九州で巨大な城を造った二人が造った城は、防御のための城であるということも忘れてはならない。

現在、本丸御殿、武具櫓、本丸裏御門、太鼓櫓、松ノ木坂御門、大組櫓、向櫓、本丸表御門、追廻橋、鉄物櫓、上之橋御門、上之橋、土塀の木造復元計画もある。

歴史にIFは禁物なのだが、黒田長政、加藤清正が島津義弘と同盟関係を結び、対徳川勢力を結集すれば、徳川を倒せたのかもしれないが、豊臣秀頼には、政治的才はなく、戦国時代で疲れ果てた彼らは、安定を求めていた。戦のない世を望むのは、いつの時代も同じことだ。筑前における文化の発展は戦いの時代を経験した黒田長政以降の黒田藩によるものだ。

戦争の世紀を経験した我々が、まだ、戦争を続けていることを、彼らはどう思っているのだろうか?天守閣から博多の街を見下ろし、そんなことを考えていた。【HIS】旅行プログラム

 

 

 

 

 

 

 

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