黒田官兵衛のルーツの地~備前福岡 | 大根役者

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日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に

少し、時間があったので、長船まで、足を延ばした。

今では、田園地帯の中にあるこの地域は、鎌倉時代には山陽道一の賑わいと言われた福岡の市がおかれた所だ。

農業用用水の大運河が築かれている。

長船駅から、田園地帯を通り、福岡まで歩いた。

福岡の街並みの手前にある郵便局も街並みに溶け込んでいる。

福岡の街並みの入り口にある案内板に従って、歩いた。

地蔵堂

眼を見開いたお地蔵様は珍しい。街を見守る意思が表現されているのだろう。

薬王寺跡
往時は三院六堂が建ち並ぶ大寺院で多くの参拝者で賑わっていたという。

福岡の街並みを歩く。

 

仲崎邸
明治から大正時代初めにかけて建てられた、築約100年の大地主の邸宅

仲崎邸の隣の空き地に井戸がある。石柱に七つ井戸と彫られている。

「備前福岡名所町、七口、七井戸、七小路」と、言い伝えられて来た。ここ福岡には昔から、飲用、消火用、その他生活用水を得るため、個人井戸の他に、その周辺の人々によって管理使用されていた共同井戸があった。現在、七つのうち四つの井戸が昔の姿のまま残っている。

仲﨑邸のある全面道路は道幅が広く、中国地方随一を誇った大商業都市で
その面影が800年経った今でも残されている。

備前福岡は、南北朝時代から室町時代にかけて守護、守護代の城館があった中世の城下町で、町並みには戦いに備えた「襞:町中に行くに従い家屋が一人身を隠せるくらい奥に下がっている」「歪:道路の見通しが悪いように少しカーブしている」「三つ角:見通しが悪いように四つ角は一か所のみ」などの工夫が今でも残っている。
日本刀のブランド「備前長船」も有名で、「長船四天王」(本阿弥光悦が提唱した4人=長光、兼光、元重、長義)と呼ばれる4人の卓越した刀工も輩出している。

天正10年(1582)、羽柴秀吉が備中高松城を水攻めした時は、備前福岡で物資の調達を行なった。
天正19年(1591)、吉井川が氾濫し、大きな被害を生んで以降は衰退し、「備前長船」の長船鍛冶も壊滅的な打撃を受け、生き残った多くの刀工達も離散したと伝えられている。


近世になっては、妙興寺の門前町となった。

大イチョウも有名


妙興寺には、黒田家の祖・黒田高政と小寺氏の家臣・黒田重隆(黒田官兵衛の祖父)の墓がある。

黒田長政が筑前52万石の大名となり城を建てた時、先祖が暮らした備前福岡にちなみ
福岡城と名付けた。今の福岡という地名のルーツはここにある。

 

自害した宇喜多興家の墓もある。暗愚を装い、宇喜多の家名や幼い直家を守るために自らの命を加盟に捧げた。

日蓮宗教意山妙興寺は応永10年(1403)に播磨の国主・赤松則興の追善供養のために阿闇梨日伝によって開かれた。戦国時代には、寺域が2町(約2万平方メートル)余に及び、1院と10の坊が立ち並ぶ大寺院だった。

本十院

現在残る唯一の塔頭。

真淨院旧跡

日朝堂

室町時ぢの学僧、身延山十一世日朝上人が祀られている。

三十番神堂

法華経の守護神。

備前焼の狛犬がこの地方らしい。備前焼の里、伊部は隣町だ。

平井武策像

和気の閑谷学校、津山の勇修塾で学び、京都で医術を学び、福岡で開業し、地元教育に努めた平井秀策の息子で岡山藩医学館に学び、福岡で平井病院を開業した平井武策の像だ。元は銅像だったが、戦時中の金属供出で提供し、備前焼の像になった。この方いいな。

妙興寺を後にし、街並みを歩く。

福岡の市跡

備前福岡郷土館

平井武策の孫、方策が寄付した大正時代建築の旧平井病院の建物だ。


街を歩く。

 

福岡だんじり

明治治初期まで4台のだんじりが、福岡の秋祭りに豊年を祝い巡行していた。明治末期には2台になり、破損したまま保存されていただんじりを昭和57年頃、合併修復し現在の姿になりました。総欅作り、長さ4.2メートル、幅2メートル、高さ3.65メートル、座高さ0.9メートル。だんじりの端木の裏に文政4年(1821)の年号や大工佐助上組などの文字が書かれている。

10月の秋祭りに再訪したい。

 

 

かっては、街道一の賑わいを誇った福岡は、宇喜多直家が岡山城下町建設のために福岡の商人を強制的に移住させたこと、更に吉井川の洪水に町が襲われ、流路が変わり、新流路東岸が邑久郡に移管された。これらが原因で福岡は次第に衰退し始めた。江戸時代、岡山藩支配下になってからも福岡の市は行われていたが、岡山藩指定の13か所の在町の一つとなり、妙興寺門前町、門前町・街道の宿場町として町は維持し続けた。活気を取り戻し山陽道有数の在町として賑わったのだが、明治維新後、岡山藩の保護を失うと完全に農村化し、明治22年に長船など、三ヶ村と合併し、平成の大合併で、瀬戸内市の一部となった。

大河ドラマの頃は、観光客でにぎわったのだが、今では、ひっそりとした街並みとなっている。刀剣乱舞ブームで備前長船刀剣博物館を訪れる人は多いが、軍師官兵衛のルーツである備前福岡に、ぜひ。立ち寄ってほしい。