京都ひとり散歩(その11)~法住寺界隈 | 大根役者

大根役者

日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に

京阪七条駅界隈風景は好きだ。町割りに平安遷都から現在に至る歴史を感じることができる。

塩小路通りを歩く。

 

当然のように地蔵堂が存在する。

専称寺の縁起も興味深い。

もとは、天台宗の末寺であったが、いまは浄土宗西山禅林寺派に所属している。  境内には醍醐三宝院の開山・理源大師が大峯山をきりひらかれたときの自作念持仏「馬頭観音」が祀られている。馬頭山専林寺と号し、馬頭さんの寺と呼ばれるようになった。寺に所蔵する文政年間の名陶工・欽古堂亀祐作・陶墓並に象香炉は貴重なる美術参考品として陶芸家達から珍重されている。この寺の住所は東山区塩小路通大和大路西入七軒町だ。京都らしい。

法住寺殿の南大門が見えてくる。この土塀が太閤塀だ。

 

 

南大門を過ぎ、しばらく行くと、こんな石標とコンクリート塀に埋め込まれたプレートが見える。

石標には

「此付近近 坂本龍馬 北添佶摩 など 土佐志士寓居跡」
「池田屋事件 もうひとつの舞台地」

と刻まれている。

説明板には

「土佐志士寓居跡 当地東山には、ながく「大仏」がありました。豊臣政権が造営し、徳川政府が維持したものです。
その寺の名を、江戸時代以後、方広寺といいました。現在も同寺は存在しますが、当時はいまと比較にならない広さで、三十三間堂や法住寺、養源院などもその境内に含まれていました。現在地はその南限にあたります。
蓮華王院南大門と太閤塀はそのなごりです。その前(南側)の道も、一般には塩小路通とよびますが、
「大仏南門通」とも別称されています。付近にある「大仏変電所」の名もそれゆえです。
幕末期、この大仏南門近くに、坂本龍馬ら土佐出身の志士が住んでいました。ここで龍馬は、妻楢崎龍と出会うことになります。たまたまその母貞と末妹君江が同所で賄いをしていたからです。
このことはお龍の晩年の回想録「反魂香」に記録されています。すなわち「大仏南の門の今熊の道」の河原屋五兵衛の隠居所を借りて、「中岡慎太郎、元山七郎、松尾甲之進、大里長次郎、菅野覚兵衛、池倉太、平安佐輔、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等」と同居していたといいます。
が、これが事実かどうか、ながくわかりませんでした。これを裏付けたのが、お龍の回想にも出てくる北添佶摩の書簡でした。
そこに「私儀は此節は洛東東山近辺瓦町と申す処へ居宅を借受け、外に同居の人五・六人も之れあり不自由なく相暮し居候」
とあるからです。当地の南向かいの地名はいまも「本瓦町」で、北添が龍馬らと暮らしていた地であったにちがいありません。
当地は同元治元年6月5日、新選組を有名にした池田屋事件の際、龍馬や北添らの住居であったため、京都守護職などの役人に
踏み込まれます。龍馬らは不在でしたが、貞や君江が連行されました。ちなみに北添はこの事件で戦死します。
その後の8月初旬、帰ってきた龍馬は、お龍と青蓮院塔頭金蔵寺で内祝言を挙げることになります。
以上の理由から、当地を重要な幕末史蹟として建碑し、顕彰するものです。」               

維新へ至る道が残されているのも京都だ。平安遷都から1100年の三次元の存在と時を包含するのも京都の魅力だ。四次元の世界から俯瞰してみることができることもも京都の楽しみだ。

 

南大門(重要文化財)に戻る。

豊臣秀吉が東大寺に模して創建した大仏殿方広寺の南門だったもので、虹梁の刻銘から慶長5年(1600)の建造と考えられている。木骨土造の築地塀は「太閤塀」と呼ばれ、方広寺の南限を意味するために建てられたもので、蓮華王院をも取り込んだ形となっている。

南大門から左に見えるのが三十三間堂、右に法住寺が見える。正面は京都国立博物館だ。秀吉は方広寺境内にこの風景を取り込んだのだが、元々、この場所は、京都にとって、歴史上、重要な場所だ。法住寺殿(ほうじゅうじどの)は後白河法皇が三十年間に渡り、院政を行った広大な政庁だ。

東山の麓から西は鴨川河岸、東西は八条坊門小路から六条大路に及ぶ広大な地域で、地名から法住寺殿と名付けられた。蓮華王院(三十三間堂)は法住寺殿の敷地内に建てられた。

 

保元3年(1158)、後白河天皇は、法住寺の地を院の御所と定めて、上皇となってお住まいになられた。
元は、天台宗の寺として建てられ、広大な敷地を占めていたが、火災で荒廃していたと伝えられている。

 

法住寺は平安時代中期に藤原為光によって創設された。

寺域の釈迦堂には本尊金色丈六釈迦如来、薬師如来、観音菩薩、延命菩薩、如意輪観音が安置され、法華三昧堂には普賢菩薩、常行三昧堂には阿弥陀世尊が安置され、円融天皇を迎えて豪華な法要がいとなまれた。為光は寛和元年(985)6月に妻を、次いで7月には花山天皇の女御であった娘・藤原忯子を失っており、その菩提を弔う目的でこの寺を創建したという。為光は現世の栄達を捨て、ここで念仏三昧の生活をおくった。正暦3年(992)、為光の死にあたっては「封戸100戸」が寺に寄進された。為光死後、しばらくの間は法住寺は子孫によって護られていたが、長元5年(1032)、九条邸から燃えひろがった火災によって焼失。このあと約120年間、大規模な再建などの記録は見られない。

法住寺殿が木曽義仲によって焼き討ちされ、数年を経て後白河法皇も崩御すると、法住寺は後白河法皇の御陵を守る寺として江戸時代末期まで存続、明治時代に御陵と寺が分離された。

 

身代り不動明王像は、平安期の作風とされる。この不動像は寺伝では円仁(慈覚大師)が造立したといわれ、後白河法皇の信仰も篤かった。義仲の放火の際には法皇の身代りとなったと伝えられており、現在も毎年11月15日には不動会が営まれる。

本尊の不動明王像(身代り不動尊像)は、木曽義仲の法住寺殿焼き討ち(法住寺合戦)の時に、後白河法皇の身代わりになったと伝えられ、守護仏として崇敬されてきた。

堂内で、御朱印をいただき、護摩札をおさめ、家内安全を祈願した。

法住寺陵は、法住寺の南殿(常御所)があった場所にある。

 

 

宮内庁の管理下にある。

保元3年(1158)、後白河天皇は譲位して上皇となり、法住寺を中心とした地域に後白河上皇の院御所が建築され始めた。永暦元年(1160)には延暦寺の鎮守社である日吉社を勧請して新日吉社を、上皇が信仰している熊野三山から熊野権現を勧請して新熊野社が法住寺殿の域内に建立された。永暦2年(1161)に工事は完成し、上皇は法住寺殿に居を移して院政を行った。

法住寺殿の敷地は十余町、平家を後ろ盾にした上皇の権威で、周囲の建物は取り壊され、広大な敷地に北殿上御所、北殿下御所、南殿の三御所が作られた。狭義の法住寺殿はこの南殿をいう。南殿には上皇の住まいとして藤原信頼邸が移築され、東小御堂、千手堂などが立ち並び、広大な池もあった。長寛元年(1163)には、蓮華王院(三十三間堂)が平清盛の寄進で南殿の北側に造立されている。仁安2年(1167)には手狭だった南殿の御所が新たに建築され、さらに新御堂や不動堂も建立された。

後白河上皇は嘉応元年(1169)に園城寺の長吏覚忠を呼んで出家して法皇となり、後に鴨川の東・綾小路の地に比叡山にあった妙法院を移転させて法住寺と新日吉社をその末寺とし、管理下に置かせ、妙法院を門跡寺院(綾小路門跡)とした。案元2年(1176)、法皇の女御・建春門院(平滋子)が亡くなると、女御の御陵として法華堂が建てられた。

 

後白河法皇の意図するところからは、かけ離れた新たな権威の創出による新しい歴史を日本が踏み出すきっかけとなった法住寺殿

は、歴史の必然だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【HIS】旅行プログラム