京都ひとり散歩(その10)~西寺跡から羅城門跡へ | 大根役者

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平安京には、東寺、西寺の二つの寺の建立しか許されておらず、同規模の寺院が朱雀大路の東西に配置され、

東寺、西寺の中間に羅城門が置かれ、羅城門から御所に到る朱雀大路が配置されていた。

条坊制の都市において、正面から南方に向かう道で、正門羅城門から始まり、大内裏正門の朱雀門で終わる道が朱雀大路だ。南方の守護神が朱雀であるため、この名がある。

 

藤原京から始まり、平城京、長岡京、平安京でも都市づくりは朱雀大路を中心に作成されている。朱雀大路は大陸からの使者を迎える道でもあった為、整備されていたが、平安遷都から、20年経つと、外交使節の入京は途絶えたため、朱雀大路は荒れ果てていった。日本の条坊制の都市づくりは、中国に学んだのだが、中国でも宗の時代になると条坊制に基づいた都市づくりは行われなくなった。

 

真言宗総本山である東寺が現在まで、最澄の天台宗総本山、延暦寺とともに平安二宗の真言宗総本山であり続ける理由は、嵯峨天皇が下賜した東寺の空海、西寺の守敏のキャラクターと能力の違いだったのだろうか?地理的な理由も西寺が衰退した理由とされるのだが、律令制国家の基本的条坊制都市づくりに欠かせない東寺、羅城門、西寺という内裏に到る朱雀大路のスタンダードな風景が、時代と共に変化し、両官寺を維持する予算も時代とともに、変質したからだろう。中国からの賓客が平安京に来ることもなくなり、迎賓の意味もあったと内裏に到る入口の意味もなくなってきたからだろう。このあたりは、農地化されて荒れていった。

東寺にも尊ザクの危機があったが、真言宗総本山への崇敬は厚く、現在まで、歴史とともに物理的にも存続してきた。

おそらく同じ風景があったであろう東寺南大門から西寺まで歩いた。

御影堂裏の西門から出て、壬生通りを渡る。千本通を渡り、新千本通を渡り、七本松通りを渡る。列記すると、条坊制の町割りが

意識できる。もちろん、往時の町割りとは異なるが、この新千本通が朱雀大路となる。

 

鳥居が見えてくる。鎌達稲荷神社(けんたついなりじんじゃ)だ。

案内板に書かれている御由緒

「当神社は和銅四年元明天皇の御時(西暦七一一)の御鎮座とされるが、御神鏡の記録によると、仏教伝来(西暦五三八)の頃(飛鳥時代)の御鎮座とされ、伏見稲荷大社よりも古く、元稲荷とも伝えられている。
平安朝以降、元天文家で陰陽師であった安倍晴明が子孫、安倍土御門家の祭祀にして、平安朝及び人民に利益を施し、天下泰平・五穀成就を祈願したと伝えられている。御祭神の主神は、倉稲魂大神と猿田彦大神である。
倉稲魂大神は、五穀をはじめ、衣食住及び商工業繁栄の神と敬われ、万生業に福利を授け給ういわゆる開運の神である。
猿田彦大神は、天孫瓊々杵尊が御降臨の時、道案内された神で、広く人事を良きに導き給う神であり、家内安泰・交通導きの神である。主神二柱の鎌達様御信仰御利益由来には、幸運・勝負運を招き、奇蹟を生む神様の御霊験ありと敬われている。」

 

万生業に福利を授け給う開運の神・倉稲魂大神と、広く人事を良きに導き、交通安全の神でもある猿田彦大神が主神で、西寺跡が鎮座地となっている。
御利益由来には、開運・勝負運を招き奇蹟を生む神さまの霊験ありと敬われており、戦国時代の武将や日清・日露戦争に従軍した兵士が身に着け、軽いけがで済んだといわれる。サムハラ呪符は災難除け、奇蹟を生むお守りと言われている。

摂末社・白菊稲荷神社

鎌達稲荷神社の西側に小高い丘が見える。ここが唐橋西寺公園だ。住宅地の中の公園のような佇まいだが、このあたりに西寺があった。

礎石が残っているだけで、往時の風景を偲ぶ術はない。

この礎石もよく残っていた。平安京遷都から現在に至る歴史を東寺との対比でイメージすることも歴史の旅としては正しいのだろう。応仁の乱で荒れ果て、戦国時代を生き延び、江戸時代の雌伏の時から、王政復古に到る道の時にこの西寺跡はどうなっていたのだろうかと思いを馳せてみた。

九条通りまで出て、東へ戻り、羅城門跡に行く。

 

羅城門跡と書かれた石柱の横に地蔵堂がある。

安置されいるのが、「矢取地蔵」だ。
東寺の記事で、述べたが、東寺の空海と西寺の守敏僧都は、術比べをし、優劣を競い対立した。
守敏僧都は、参内すると凍った水を湯のような水にしてみたり、火鉢の火を消してみせたりと、帝にさまざまな加持による術を見せたという。

帝はそのことを空海に伝え守敏僧都をほめると、仏法を手品のように扱うことを嫌った空海ははこう申し上げた。

「私がいるところではできないでしょう」と。
帝は、空海を物陰に隠し守敏僧都を呼び出して同じ術を見せてもらうことにした。陰で空海が逆の術をかけていたことから、守敏僧都の術はうまくいかなかったという。

地蔵堂の「矢取地蔵」は、高さ1.5メートルで、右手に錫杖、左手に矢羽根のはげた矢を2本握っている。
空海に恥をかかされた守敏僧都は、羅城門で空海を待ち伏せし、背後から矢を射かけた。するとそこに黒衣の僧が現れ、矢はその僧の肩口を貫いた。

空海の身代わりとなった黒衣の僧は地蔵菩薩で、地蔵堂の「矢取地蔵」の右肩には矢傷のあとが残っているという。

東寺の空海と西寺の須敏僧都には、神泉苑の雨乞いの伝説も残されている。

密教の世界に、人智を越えた超能力の力を時の天皇たちは求めていたのだろう。人間世界のおどろおどろしさを救うため、神の力を頼った平城京から遷都し、神よりも自分たちに近い仏教の力に頼ったのも平安二宗成立の背景にあるのだろう。

矢取地蔵尊の前には奉納された地蔵が並べられている。おなじみの化粧地蔵もある。

羅城門は延暦13年(794)に建設された平安京の正門だ。東西4.5キロ、南北5.3キロの京域中央部の南端に羅城門がそびえ、北端の朱雀門と相対していた。門は正面33メートル、奥行8メートル。二重閣瓦屋根造で棟両端に金色の鴟尾が置かれていた。映画・小説・能の舞台となった羅生門のことだ。

今では、児童公園の中に石碑が建てられているだけだ。中国の要人の行列が羅城門から入り、内裏に進む平安京のシンボルであった風景が、廃れていき、盗賊や鬼人の住処となっていた平安京の歴史を想像することすらできない。羅城門石碑の前に掲げられた「ハトに餌を与えないでください」の看板が寂しい。この場所は戦国時代、江戸時代を通じ、荒れ果てたままだったんだろう。明治28年に建てられた石碑に平安京の歴史をたどる術しかないのが残念だ。

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